ウイーン体制の確立と崩壊:確認テスト−1

一緒に解いてみよう
ウィーン体制の成立と崩壊/確認テスト(第1問)

高校世界史 ウィーン体制の成立と崩壊5 確認テスト(前半)

解説

これでわかる!
問題の解説授業
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第25章「ウィーン体制の成立と崩壊」の確認テストです。
この章で学んだ内容を、問題を解いて確認しましょう。

問題(1)

問題1(1)

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空欄A。
ウィーン会議を主催 した オーストリア外相 といえば?
正解は メッテルニヒ です。

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空欄B。
フランス外相タレーランが提唱 した考え方といえば?
正解は 正統主義 です。
正統主義は、ヨーロッパ諸国の領土や政治体制を、フランス革命が発生する前の状態に戻していこうとする考え方です。ウィーン会議では、この考え方に基づいて話し合いが進められました。

(1)の答え
問題1(1)答え入り

問題(2)

問題1(2)

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空欄A。
神聖同盟を提唱した ロシア皇帝といえば?
正解は アレクサンドル1世 です。
ロシアが神聖同盟を結成した一方、イギリスは 四国同盟 を結成。四国同盟には後にフランスも加入し 五国同盟 となりました。神聖同盟と五国同盟は、ウィーン体制を支える柱として機能したのです。

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空欄B。
ウィーン体制に反発し ドイツの自由と統一を求めた運動 といえば?
正解は ブルシェンシャフト 運動です。
「ブルシェンシャフト」とは「 ドイツ学生同盟 」という意味です。学生たちが中心に運動を起こしましたが、オーストリアのメッテルニヒにより鎮圧されてしまいました。

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スペインでは、ブルボン朝に対する 立憲革命 が起きましたが、こちらはフランス軍の介入によって鎮圧されてしまいました。以上のように、ヨーロッパ各地で ウィーン体制に反発する自由主義の運動 が発生したのです。

(2)の答え
問題1(2)答え入り

問題(3)

問題1(3)

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空欄A。
イタリア で 統一と憲法制定を求めて蜂起した という記述がヒントです。
正解は カルボナリ (炭焼党)です。

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空欄B。
ロシア で起こった 憲法制定や農奴制の廃止 を求める反乱といえば?
正解は デカブリスト の乱です。

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空欄C。
ギリシア独立戦争を支援した イギリスのロマン派詩人 といえば?
正解は バイロン です。
バイロンの他、フランスのロマン主義の画家 ドラクロワ も、ギリシア独立への支援を訴える作品を描いたことで知られます。

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最終的には、バイロンなどの義勇兵に加え イギリス・フランス・ロシア もギリシアを支援したことで、ギリシアは オスマン帝国からの独立を達成しました。

(3)の答え
問題1(3)答え入り

問題(4)

問題1(4)

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空欄A。
七月革命 が勃発し、亡命したフランス国王といえば?
正解は シャルル10世 です。
彼の亡命で ブルボン朝は崩壊しました。

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空欄B。
シャルル10世にかわって新しい国王に即位した人物は?
正解は ルイ=フィリップ です。
彼は「フランス国民の王」を自称しましたが、実際は 極端な制限選挙 を行うなど、富裕層を優遇する政治を行いました。また、この時期にフランスでは 産業革命 が進展し、 産業資本家や労働者 といった新しい階級が登場しました。

(4)の答え
問題1(4)答え入り

問題(5)

問題1(5)

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空欄A。
1848年に勃発し、 ルイ=フィリップが亡命するきっかけとなった 出来事といえば?
正解は 二月革命 です。
二月革命の結果ルイ=フィリップは亡命し、フランスは国王がいない共和政の時代へ突入します。

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空欄B。
二月革命後、臨時政府のもとで第二共和政が成立しました。この臨時政府に入閣した 社会主義者 といえば?
正解は ルイ=ブラン です。

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社会主義というのは 労働者や失業者を守ろうとする考え方 です。ルイ=ブランはこの考え方に基づき 国立作業場 を設置しました。しかし、彼の労働者を贔屓する政策は産業資本家や農民たちからは支持されません。ルイ=ブランら社会主義者は 四月普通選挙で大敗 し、 国立作業所は閉鎖されてしまいました。

(5)の答え
問題1(5)答え入り

問題(6)

問題1(6)

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空欄A。
ベネズエラ・コロンビア・ボリビア を独立に導いた人物といえば?
正解は シモン=ボリバル です。

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空欄B。
アルゼンチン・チリ・ペルー を独立に導いた人物といえば?
正解は サン=マルティン です。
シモン=ボリバルとサン=マルティンは先住民(インディオ)の出身ではなく、 クリオーリョ と呼ばれる 白人地主 でした。

(6)の答え
問題1(6)答え入り

ウイーン体制の確立と崩壊:確認テスト−2

一緒に解いてみよう
ウィーン体制の成立と崩壊/確認テスト(第2問)

高校世界史 ウィーン体制の成立と崩壊6 確認テスト(後半)問2

解説

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問題(1)

問題2(1)

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ナポレオン が失脚した後、フランスでは ブルボン朝 が復活しました。ブルボン朝は次第に反動政治を強化したため、国民は不満を抱くようになりました。この不満を外にそらそうと、国王 シャルル10世 が出兵した場所といえば?そう、正解は アルジェリア です。

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「アルジェリア出兵」自体は成果を挙げましたが、フランス国民の不満を解消することはできませんでした。同年に 七月革命 が勃発し、シャルル10世はイギリスに逃亡することになったのです。

(1)の答え
問題2(1)答え入り

問題(2)

問題2(2)

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① フランクフルト国民議会 は、ドイツ統一の方針をめぐって、大ドイツ主義と小ドイツ主義が激突した会議です。これは 二月革命 の影響で開かれた会議なので、この選択肢は誤りです。

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② マッツィーニがローマ共和国を建国した のも二月革命の影響です。
③ コシュートがハンガリーで民族運動を率いた のも二月革命の影響です。

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①~③が誤りなので、消去法で正解は  となります。
ベルギーの独立 は七月革命の影響です。

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七月革命の影響で、 ベルギー 独立や ポーランド 蜂起、 ドイツ 反乱や イタリア 反乱が起こりました。二月革命の影響として、 ウィーン 三月革命や ハンガリー 民族運動、 フランクフルト国民議会 や イタリア 民族運動など「諸国民の春(1848年革命)」と呼ばれる動きがありました。七月革命の影響と二月革命の影響を、混同しないように覚えておきましょう。

(2)の答え
問題2(2)答え入り

問題(3)

問題2(3)

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ハイチ はラテンアメリカで最初の独立国です。その独立運動を率いた 黒人指導者 といえば?
正解は トゥサン=ルヴェルチュール です。
彼自身は、独立運動の途中で ナポレオン軍 に捕まり獄死してしまいましたが、彼の指導によりハイチは独立を達成することができたのです。

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トゥサン=ルヴェルチュールは、ラテンアメリカの独立運動指導者の中では珍しく 黒人 でした。シモン=ボリバルやサン=マルティンなど、他の指導者の多くは クリオーリョ と呼ばれる 白人地主 でした。

(3)の答え
問題2(3)答え入り

問題(4)

問題2(4)

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ポルトガルから独立を達成した という記述がヒントです。
正解は ②ブラジル ですね。

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①メキシコ、③ベネズエラ、④アルゼンチンはいずれも スペイン の支配からの独立です。「 ポルトガルから独立 」したラテンアメリカの国とヒントがあれば、 ブラジル を思い浮かべられるようにしておきましょう。

(4)の答え
問題2(4)答え入り

問題

一緒に解いてみよう
ウィーン体制の成立と崩壊/確認テスト(第3問)

高校世界史 ウィーン体制の成立と崩壊6 確認テスト(後半)問3

解説

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問題の解説授業

問題(1)

問題3(1)

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①ウィーン会議の結果、オーストリアは ヴェネツィアやロンバルティアを獲得し、北イタリアの支配に乗り出すことになりました。この選択肢は問題ありません。正解は  です。

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②「オランダに割譲した」という記述が誤り。イギリスは オランダからセイロン島を割譲されています。

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③確かに 正統主義 はウィーン会議の基本理念となりましたが、これを提唱したのは「 サン=マルティン 」ではなく「 タレーラン 」です。サン=マルティンは アルゼンチン など ラテンアメリカ諸国の独立を指導した人物 です。

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④神聖ローマ帝国は 復活していません。 ウィーン会議の結果、かつて神聖ローマ帝国を構成していた オーストリ や プロイセン といった国々は、オーストリアを盟主として ドイツ連邦 を発足することになりました。

(1)の答え
問題3(1)答え入り

問題(2)

問題3(2)

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①イギリスの カニング はラテンアメリカ諸国の独立を支援しました。その理由は 自国の製品を売り込むためです。 イギリスは「製品市場」を獲得するために、ラテンアメリカ諸国の独立を支援しました。この選択肢は問題ありません。

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②「干渉を支援した」という記述は 誤り です。アメリカの モンロー はヨーロッパとアメリカが互いに干渉しないことを宣言し、欧州諸国のラテンアメリカに対する干渉をけん制しました。これを モンロー宣言 といいます。この選択肢は誤りなので、正解は  となります。

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③ラテンアメリカの独立の中心は、 クリオーリョ とよばれる 白人地主 でした。この記述は問題ありません。クリオーリョの指導で独立を果たしたラテンアメリカ諸国は、独立後も白人たちの干渉を受け、現地の先住民たちは冷遇された生活を送ることになりました。

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④ シモン=ボリバル はベネズエラやコロンビアを独立に導きました。これも問題ありません。 ベネズエラ・エクアドル・コロンビア・ボリビア が シモン=ボリバル によって、 アルゼンチン・チリ・ペルー が サン=マルティン によって、それぞれ独立を果たしています。

(2)の答え
問題3(2)答え
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この章では ウィーン体制の成立と崩壊 について勉強しました。
フランス革命やナポレオンの影響で混乱したヨーロッパを立て直すために、君主たちはウィーン会議を開き、フランス革命前の状態、政治体制で言えば 絶対王政 の時代に戻そうと考えました。しかし、革命によって一度自由・平等を経験した市民にとっては、革命前の状態に戻ることは苦痛でしかありませんでした。

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ウィーン会議の内容や、ウィーン体制を維持するための政治家や君主たちの動きと、ウィーン体制に反発するかたちでヨーロッパ各地で起きた自由主義運動の内容をしっかり復習しておきましょう。また、ヨーロッパで起きた自由主義運動はラテンアメリカ諸国にも影響を与えることになりましたね。

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最終的には、フランスで 七月革命 と 二月革命 が起き、その影響が広がる中で ウィーン体制は崩壊していきました。 七月革命と二月革命、それぞれの革命がどのような影響を与えたのか、しっかり区別して覚えておきましょう。