イギリスの自由主義
ポイントの1つ目は、「宗教的な自由の広まり」です。
19世紀前半のイギリスでは、政治や宗教、経済など様々な分野で自由主義的改革が進みました。その中でも、ポイント1では宗教の自由について学習します。
1801年、イギリスはカトリック教徒が優勢なアイルランドを併合しました。イギリスではもともと、キリスト教の中でもイギリス国教会が優遇され、カトリックは弾圧されていました。併合されたアイルランドのカトリック教徒たちは差別され、イギリス議会に代表を送ることすらできない状況にありました。
そんな状況から、少しずつ宗教の自由が認められていきます。1828年には審査法が廃止され、カトリック教徒を除く非国教徒の公職就任が可能になったのです。審査法とは、イギリス議会が1673年に制定した法律で、イギリス国教会信者以外の者は公職(官職)に就けないことを定めた法律です。この法律のねらいはカトリック教徒を排除することにありました。
そんな審査法が廃止されたことで、カトリックを除く、国教会の信者以外も公職に就けるようになったのです。その後、翌年にカトリック教徒解放法が制定され、カトリック教徒も公職に就けるようになりました。
カトリック教徒解放法の制定には、アイルランド出身のオコンネルという人物の活躍がありました。彼はカトリック教徒に対する差別の撤廃を求める運動を指導した人物です。
1828年の審査法廃止と、翌年のカトリック教徒解放法。このように、1820年代のイギリスでは、宗教的な自由が認められるようになっていったのです。この流れをしっかり覚えておきましょう。
ポイントの2つ目は、「選挙法の改正」です。
19世紀前半のイギリスでは、経済や宗教などの分野で 自由主義的改革 が進みました。この自由主義的改革の一環として、ポイント1では 宗教的自由の進展 について勉強しました。
ポイント2では 選挙法の改正 を通じて、イギリス国民が 選挙権を獲得していく様子を学習します。
イギリスでは、18世紀後半から 産業革命 が始まり、その結果 産業資本家 が台頭することになりました。産業資本家とは、工場や機械などの生産手段を有する人たちです。「工場の経営者」だとイメージしてください。そんな産業資本家は、自分たちの意見を政治に反映させようと、次第に選挙権を要求するようになりました。
また、産業革命が進展したことで農村から都市へと人口が集中するようになりました。地方で職を失った人々が、たくさんの工場が建設されている都市へと集まったのです。こうしてイギリスの都市部と農村部では人口のバランスが大きく変化したのですが、選挙区は昔のまま変わっていませんでした。そこで登場したのが 腐敗選挙区 です。
有権者の数は激減したのにも関わらず、従来どおりの議席数が割り振られていた選挙区を「腐敗選挙区」といいます。こうした選挙区では、立候補者が少数の候補者を 金銭で買収して当選する という不正が行われていました。そこから「腐敗」選挙区と呼ばれているのです。
この状況を打開すべく、1832年に 第1回選挙法改正 が実施されました。この改正により 腐敗選挙区が廃止 され、 産業資本家に選挙権が与えられました。
第1回選挙法改正では産業資本家に選挙権が与えられましたが、産業資本家のもとで働く 労働者 には依然選挙権がありませんでした。そこで、労働者たちは チャーティスト運動 を展開しました。この運動は、 史上初の労働者による組織的な政治運動 として知られます。
労働者は、チャーティスト運動の政治綱領として 人民憲章(ピープルズ=チャーター) を掲げました。21歳以上の男性の普通選挙など、6カ条の要求を掲げてチャーティスト運動を展開したのです。
この運動の結果、1867年に 第2回選挙法改正 が実施され、都市労働者にも選挙権が付与されることになりました。
以上のように、イギリスでは2回の選挙法改正を経て、選挙権が一気に拡大することになりました。この流れをしっかり覚えておきましょう。
ポイントの3つ目は、「自由貿易主義体制」です。
19世紀前半のイギリスで見られた 自由主義的改革 について、ここまで 宗教 と 政治 に注目してきました。ポイント3では 貿易 に注目します。
ポイント2でも説明しましたが、産業革命の結果、イギリスでは工場経営者などの 産業資本家 が台頭しました。彼らは自分の工場で作った製品をすぐに輸出できるよう、制限のない 自由貿易 体制を望みました。彼らの要求もあって、イギリスは 自由貿易主義体制 を確立するようになるのです。
1815年、イギリス議会は 穀物法 を制定しました。地主や農業資本家を保護するため、輸入穀物に高関税をかける保護貿易政策です。この法律に対し、産業資本家たちは不満を感じていました。
1839年、 コブデン と ブライト は 反穀物法同盟 を結成し、穀物法の廃止を強く訴えました。輸入穀物に高関税をかけると、地主や国内の農家は助かりますが、産業資本家にとっては困ります。なぜなら、穀物の値段が高くなると、自分が雇っている労働者の給料を上げなければならないからです。
19世紀半ばには、アイルランドで ジャガイモ飢饉 が発生しました。ジャガイモは寒くてやせた土地でも十分に育つため、アイルランドでは国民の主食として普及していたのですが、様々な要因からジャガイモが不作となり、大量の餓死者を出すことになってしまったのです。
この問題に対処するため、1846年、ついに 穀物法が廃止 されることになりました。
1833年、 東インド会社の中国貿易独占権が廃止 されました。さらに、同社の商業活動そのものが全面的に禁止されました。貿易を独占してきた東インド会社の商業活動が停止したことで、民間の会社も貿易に参加できるようになったのです。
1849年には、1651年以降数度にわたって制定されていた 航海法 が廃止されました。この法律は、イギリスと外国との貿易においては、イギリス船かその相手国の船のみを使用することを定めた法律です。元は中継貿易を得意とするオランダ船を締め出すための法律でしたが、航海法が廃止されたことで各国の船は自由にイギリスに出入りできるようになりました。
穀物法の廃止、東インド会社の商業活動停止、そして航海法廃止。こうして、イギリスの自由貿易主義体制が整うことになりました。
今回はイギリスの自由主義についての学習でした。
それでは、内容を確認していきましょう。
1801年、イギリスは アイルランド を併合し自国の領土としました。イギリスに併合されたアイルランドは カトリック が優勢でした。
1828年、自由主義的改革が進むイギリスでは 審査法 が廃止され、 カトリック以外の非国教徒は公職就任が可能になりました。翌年には カトリック教徒解放法 が制定され、カトリック教徒も公職就任が可能になりました。
産業革命が進展したイギリスでは 産業資本家 が台頭し、また都市部への人口集中で都市と農村の人口バランスが崩れました。
人口バランスが崩れると、有権者が激減したにも関わらず従来どおりの議席数が割り振られる選挙区が発生しました。このような選挙区を 腐敗選挙区 といいます。
グレイ内閣 のもとで行われた 第1回選挙法改正 で腐敗選挙区は廃止され、同時に産業資本家たちは選挙権を獲得しました。
第1回選挙法改正では選挙権を得られなかった労働者たちは チャーティスト運動 を展開しました。チャーティスト運動の政治綱領を 人民憲章 といいます。
チャーティスト運動の結果 第2回選挙法改正 が行われ、都市労働者たちにも選挙権が与えられることとなりました。
1815年、イギリス議会は地主を保護するため 穀物法 を制定しました。輸入穀物へ高い関税をかけることで、外国の安い穀物の流入を止め、国内産業を保護しようとしたのです。
コブデン や ブライト は反穀物同盟を結成して穀物法反対運動を展開し、1846年に穀物法を廃止に追い込みました。
1833年には、これまで貿易を独占していた 東インド会社の商業活動が禁止 され、民間の会社が貿易に参入できるようになりました。加えて、1849年には 航海法 が廃止されました。
このように、19世紀前半のイギリスでは 自由貿易 の実現を目指して様々な改革が行われました。
ヴィクトリア時代のイギリス
19世紀の欧米諸国(1)、第2回。
今回は、「ヴィクトリア時代のイギリス」について学習します。
ポイントの1つ目は、「イギリスの繁栄と二大政党」です。
19世紀後半、世界で最初に産業革命を完成させたイギリスは、「世界一」と呼ぶにふさわしい 圧倒的な工業力と軍事力 を誇っていました。今回は、そんなイギリスの繁栄について学習します。
1837年、イギリス国王に ヴィクトリア女王 が即位しました。1901年に退位するまで、彼女が在位した期間を「ヴィクトリア時代」と呼びます。
ヴィクトリア時代のイギリスは世界一の工業力を誇っていました。世界中から材料を輸入し、最先端の機械で製品に加工、そしてその製品を世界中に輸出していたのです。その様子は「 世界の工場 」と称されました。
1851年、イギリスは 世界初の万国博覧会 を ロンドン で開催しました。国内外から多くの見物客が集まり、イギリスの圧倒的な技術を世界に見せつけることになったのです。
このような、ヴィクトリア時代のイギリスの繁栄は「 パクス=ブリタニカ 」と称されました。古代ローマ時代の「パクス=ロマーナ(ローマの平和)」になぞらえた表現で、イギリスが圧倒的な工業力と軍事力を誇ったことを表します。
また、イギリスは工業力と軍事力を背景に欧米諸国やアジア・アフリカに 自由貿易主義を拡大しました。 圧倒的な力を持って交渉することで、世界中にイギリスのルールが浸透していったのです。このようにしてイギリスは「世界一」の国家として繁栄をとげました。
少し昔の話になりますが、イギリス市民革命のところで勉強した ホイッグ党 と トーリ党 という政党を覚えていますか?1640年に始まった ピューリタン革命 を経て、 チャールズ2世 が即位。その弟 ジェームズ の即位をめぐり、ホイッグ党は反対、トーリ党は賛成の立場をとって対立しました。
ホイッグ党とトーリ党。ヴィクトリア時代には、これらを母体とする「二大政党」が活躍しました。ホイッグ党の流れを汲む 自由党 と、トーリ党の流れを汲む 保守党です。
自由党 は産業資本家や労働者の支持を集め、自由主義的改革を進めました。イギリスが併合した アイルランドの自治 についても 寛容な姿勢を取りました。 一方の 保守党 は地主や貴族を中心に支持され、 アイルランドの自治に否定的でした。
ヴィクトリア時代、イギリスが世界一の大国として君臨したこと、そして二大政党が活躍したことを覚えておきましょう。
ポイントの2つ目は、「二大政党の内閣」です。
先ほど、ヴィクトリア時代に活躍した二大政党として 自由党 と 保守党 を紹介しましたね。ポイント2では、それぞれの政党が組織した内閣で、どのような政治が行われたのかに注目します。
最初に紹介するのは、自由党の政治家であった グラッドストン という人物です。彼は1868年から1894年にかけて、4度首相に就任しています。ポイント1で説明したように、自由党は 産業資本家 や 労働者 を支持基盤としています。そのため、彼は労働者に好まれる政策を行いました。
1870年には 教育法 を制定し、 公立学校 の設立を実現しました。第2回選挙法改正で労働者にも選挙権が与えられましたが、立候補者の主張を見極め、政策を比較するためにはある程度の学力や知識が必要です。そこでグラッドストンは、労働者の子どもたちに、読み書きや計算、政治の仕組みを教えるための公立学校を設立しようと考えたのです。
1871年には 労働組合法 を制定し、労働組合の結成を法的に承認しました。労働者たちが団結する権利を保障したのです。
1884年には 第3回選挙法改正 を行い、 農村や鉱山労働者に選挙権 を与えました。第2回選挙法改正では 都市部 の労働者に選挙権が付与されましたが、第4回の改正によって地方の労働者にも選挙権が認められるようになったのです。
グラッドストンは晩年、 アイルランド自治法案 を成立させ、アイルランドに自治権を与えようと尽力しました。しかし、これは議会の反対にあって否決されてしまいました。
以上のように、グラッドストンは 労働者中心の国内政策を進めた という点をおさえましょう。
続いては、 保守党 の首相 ディズレーリ を紹介します。ポイント1で説明したように、保守党は 地主 や 貴族 を支持基盤とし、 強硬外交 を行う政党でした。
1875年には、エジプトの スエズ運河を支配 してインド航路を確保しました。そのインドでは、1877年にイギリスが支配する インド帝国 を建国しました。さらに、1878年には ベルリン会議 に参加し、イギリスの対外政策の障害となりそうな国をけん制しました。
以上のように、自由党のグラッドストンは 国内の改革が中心 、保守党のディズレーリは 対外政策が中心 だったことをおさえておきましょう。
今回はヴィクトリア時代のイギリスについての学習でした。
それでは、内容を確認していきましょう。
産業革命を経た19世紀半ばのイギリスは「世界の工場」と呼ばれるほどの工業発展を遂げていました。そんな発展を象徴する国王が ヴィクトリア女王 です。彼女が国王であった時代のことを ヴィクトリア時代 と呼びます。
ヴィクトリア時代には ロンドン で万国博覧会が開催され、イギリスの工業力が世界に披露されました。また、当時のイギリスの発展は パクス=ブリタニカ と称されるようになりました。
これは古代ローマの パクス=ロマーナ(ローマの平和) になぞらえた呼び名で、ラテン語で「 イギリスの平和 」という意味です。
19世紀半ばのイギリスは 他国を圧倒する経済力と軍事力 を有し、相対的に国際社会は平和でした。こうした背景もあり、イギリスの貿易スタイルである 自由貿易主義が世界各地へ浸透していきました。
イギリス国内に目を向けると、この時代には2つの政党が登場しました。産業資本家や都市労働者を支持基盤とする 自由党 と、地主や貴族を支持基盤とする 保守党 です。
この2つの政党は政策の方針が全く異なりました。例えば、国内改革重視/外交重視、アイルランドに対して優しい/厳しい、といった点です。しっかり覚えておきましょう。
自由党の グラッドストン は、 教育法 の制定、 労働組合法 の制定、 第3回選挙法改正 などを行いました。このように、自由党は 国内政治を重視 していました。
一方保守党の ディズレーリ は、 スエズ運河 の支配、 インド帝国 の成立、 ベルリン会議 への参加など 外交を重視 していました。
対照的な2つの政党が交互に政権を握ったことで、結果的にイギリスでは国内改革と対外政策とがバランスよく進められていくことになりました。
フランスの政体変遷
19世紀の欧米諸国(1)、第3回。
今回は、「フランスの政体変遷」について学習します。
ポイントの1つ目は、「第二共和政」です。
今回は フランス が舞台です。1848年に発生した 二月革命 の後、フランスにどのような変化が訪れたのかに注目します。
1848年2月、フランスでは 二月革命 が発生し、国王 ルイ=フィリップ がイギリスへ亡命しました。国王が不在となったことで、フランスでは「共和政」が始まることになります。フランス史上共和政を迎えたのは二度目なので、二月革命の後に始まった共和政を 第二共和政 と呼ぶのです。
二月革命の直後、フランスでは 臨時政府 と呼ばれる政府が発足しました。この臨時政府のメンバーとして、みなさんに是非覚えて欲しい人物がいます。社会主義者の ルイ=ブラン です。
「社会主義」とは、労働者や失業者を救済しようとする考え方だと思ってください。臨時政府に入閣したルイ=ブランは、男性普通選挙の公約や、失業者の救済機関として 国立作業場 を設立するなどの改革を行いました。
ルイ=ブランの改革は、労働者や失業者にとってはありがたい内容でした。しかし、彼は労働者ばかりを重視したため、産業資本家や農民たちからは支持を失っていったのです。
その結果、1848年4月に実施された 四月普通選挙 において、ルイ=ブラン率いる社会主義勢力は敗北してしまいました。地方の農民たちの票が、社会主義勢力にはぜんぜん入らなかったのです。この選挙の結果 国立作業場は閉鎖 されてしまいました。
国立作業場の閉鎖に対し、今度は労働者たちが反発して 六月蜂起 を起こしました。しかし、この暴動は政府の陸軍によって鎮圧されてしまいました。ようやく実現した普通選挙の結果、国内は大混乱に陥ってしまったのです。
そんな混乱の中、1848年12月に行われた大統領選挙において、あの ナポレオン の甥にあたる ルイ=ナポレオン が当選しました。「ナポレオン」という圧倒的な知名度を後ろ盾に、大統領選挙に圧勝したのです。
彼は軍部を掌握した後、 1851年クーデタ を起こして議会を武力で解散させました。しかし、彼のクーデタに対し国民から不満の声はあがりませんでした。彼は国民の支持を得て、独裁体制を確立させていくことになります。
ポイントの2つ目は、「フランス第二帝政」です。
ポイント1で紹介した ルイ=ナポレオン は、大統領に就任後、間もなく 皇帝 に即位することになりました。彼のもとでどのような政治が行われたのか、一緒に見ていきましょう。
国民投票の結果、ルイ=ナポレオンは1852年に皇帝 ナポレオン3世 として即位しました。以降のフランスの政治体制を 第二帝政 と呼びます。
ナポレオン3世の政治は「ボナパルティズム(ボナパルト風)」と呼ばれました。つまり「ナポレオン=ボナパルトに似た政治」という意味です。ナポレオン3世は、全フランス国民の利害対立を利用し、政権を維持しようと考えました。農民も労働者も産業資本家も、全国民を自分が管理しようとしたのです。そのかいあって、彼の時代のフランス国内には目立った混乱は起きませんでした。
国内をうまくまとめる一方、ナポレオン3世は積 極的に海外進出を行いました。
クリミア戦争、アロー戦争、インドシナ出兵、イタリア統一戦争 …彼は数々の戦争に参加し勝利することで、国民からの支持を保ち、同時にフランスの領土を拡大していったのです。
しかし、1861年に始まった メキシコ出兵 は、メキシコ側の抵抗や合衆国の抗議により失敗してしまいました。この失敗を機にナポレオン3世の勢いは徐々に低下していきました。
さらに、1870年に始まった プロイセン=フランス戦争 において、ナポレオン3世はスダンの戦いに敗れて 捕虜となってしまいました。 これで 第二帝政は崩壊してしまったのです。
第二帝政が崩壊した後、フランスでは再び国王が不在の時代、共和政の時代を迎えることになります。
ポイントの3つ目は、「フランス第三共和政」です。
ナポレオン3世 がプロイセン=フランス戦争に敗れたことで、第二帝政は崩壊しました。その後フランスでは 第三共和政 が始まることになります。
ナポレオン3世が捕虜になったことを受けて、フランスでは急きょ 臨時政府 が発足しました。臨時政府のリーダー(行政長官)には、 ティエール という人物が選出されました。ティエールは戦争を終わらせるべく、ドイツとの休戦条約締結を進めました。ちなみに、当時プロイセンの国名はドイツに変わっています。
早く戦争を終わらせたいティエールは、ドイツとの交渉に非常に弱腰な態度で臨みました。相手の要求にほとんど抵抗する様子がなかったのです。その様子を見ていた労働者たちは反発し、史上初の 労働者による自治政府 である パリ=コミューン を結成しました。
パリ=コミューンに対し、臨時政府は徹底的に弾圧を行いました。パリ=コミューンは、ドイツの支援を受けた臨時政府軍と「 血の週間 」と呼ばれた激しい市街戦ののち、多くの死傷者を出して崩壊してしまったのです。ただ、歴史上初めて 労働者による自治政府が誕生した ことはすごく重要です。しっかり覚えておきましょう。
パリ=コミューンを弾圧したティエールは大統領に就任し、これをもって 第三共和政が始まりました。ただ、この時代には、農民や労働者、産業資本家など様々な立場を代表するたくさんの政党が分立したり、ドイツへの復讐感情が高まったりと、フランスの情勢は非常に不安定でした。
今回の授業では、フランスの政体変遷について学習しました。第二共和政、第二帝政、第三共和政と、政治体制の移り変わりを勉強してきましたね。第二共和政の時代に 四月普通選挙 が実施されて以降、フランスは基本的に混乱状態でした。そんな時代、国内をもっともうまくまとめたのが、独裁者のナポレオン3世だったというのは皮肉な話です。
フランスの政体変遷、しっかり復習しておきましょう。
今回はフランスの政体変遷についての学習でした。
それでは、内容を確認していきましょう。
1848年、パリで 二月革命 が発生しました。国王ルイ=フィリップが亡命し、フランスは国王のいない 共和政 の時代を迎えました。フランスにとって2度目の共和政なので、これを 第二共和政 と呼びます。
国王が亡命すると、共和政の 臨時政府 が発足し、社会主義者の ルイ=ブラン らが参加しました。彼は 国立作業場 を設立し、失業者たちに仕事を与えました。
労働者・失業者ばかりを贔屓するルイ=ブランは、農民や資本家・地主からの支持は得られませんでした。1848年4月に行われた男性普通選挙で、ルイ=ブランら社会主義者は大敗してしまったのです。すると今度は労働者たちが暴動を起こし、フランスは混乱状態に陥ってしまいました。
この混乱を鎮めたのが、あのナポレオン1世の甥にあたる ルイ=ナポレオン でした。彼は選挙で大統領に当選した後、1852年には国民投票で皇帝 ナポレオン3世 となりました。
皇帝による政治を 帝政 といいます。ナポレオン1世に続く2回目の帝政なので、ナポレオン3世の政治体制を 第二帝政 と呼びます。
ナポレオン3世は積極的な対外遠征を行い国民の人気を集めましたが、1870年に始まった プロイセン=フランス戦争 に敗北し、失脚しました。
ナポレオン3世が失脚したことで、フランスは再び共和政の時代を迎えました。これを 第三共和政 といいます。
この時代には、史上初の労働者による自治政府である パリ=コミューン が成立しました。ただしパリ=コミューンは ティエール 率いる臨時政府に短期間で打倒されてしまいました。
その後ティエールは第三共和政の 初代大統領 に就任しました。ただし、フランス国内は引き続き混乱状態となりました。
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19世紀の欧米諸国(1)、第1回。
今回は、「イギリスの自由主義」について学習します。