ポイントの1つ目は、「ウィーン会議」です。
1814年、ヨーロッパ各国の君主が集まり ウィーン会議 と呼ばれる会議を開きました。今回は、このウィーン会議が開かれた背景や、会議の内容について勉強します。
1814年~1815年、オーストリアの首都ウィーンで ウィーン会議 が開催されました。この会議の目的は フランス革命とナポレオンの対外進出によって混乱した、ヨーロッパ社会の秩序を再建すること でした。
フランス革命 によってフランス絶対王政は崩壊し、 ナポレオンの対外進出 によってヨーロッパ各地は占領されました。各国の王にとって、フランス革命とナポレオンは悩みの種だったのです。しかし、1813年の ライプツィヒの戦いでプロイセンやロシアがナポレオンを破り、ナポレオンはエルバ島へ流刑されることになりました。
ナポレオンの流刑を機に、ヨーロッパでは 各国の政治体制を、フランス革命が起こる前の状態(=絶対王政)に戻すべきだ という主張が強まったのです。こうした背景から、各国の君主が集まり ウィーン会議 が開催されました。
会議を主催したのは、オーストリア外相の メッテルニヒ という人物でした。ウィーン会議には、オスマン帝国を除く全ヨーロッパの君主が参加し、大国の 勢力均衡 を協議しました。ヨーロッパの国々の間で力関係のバランスを保ち、一部の国だけが領土を多く獲得したり、軍事力を増強したりすることがないように、話し合いが行われたのです。
この会議で、フランス外相 タレーラン は「 正統主義 」を唱えました。これは フランス革命の前の状態を「正統」とみなし 、各国の政治体制や王朝をその 「正統」な状態に戻すべきだ とする思想です。
ウィーン会議への参加国は、正統主義を理念に掲げて話し合いを行いましたが、領土問題をめぐる利害対立などが絡み、 話し合いはなかなか進展しませんでした。 そんな中、会議の主催国であるオーストリアは、参加国の親睦を深めて会議を円滑に進めようと 舞踏会や宴会を開いたのです。
舞踏会は盛り上がる一方で、話し合いはぜんぜん進みませんでした。この状況を皮肉って、ウィーン会議の様子は 「会議は踊る、されど進まず」 という言葉で風刺されました。
次のポイントでは、そんなウィーン会議が最終的にどんなかたちでまとまったのかを見ていきます。
ポイントの2つ目は、「ウィーン会議の結果」です。
なかなか議論が進まないウィーン会議も、1年がかりで何とか結論がまとまります。各国がどんな取り決めを交わしたのか、一緒に確認していきましょう。
1815年、ウィーン会議の結果は ウィーン議定書 にまとめられました。この議定書に基づき、ヨーロッパ各国は 領土の変更 と 国家体制の変更 の2つを受け入れることになりました。まずは、各国の 領土の変更 を確認しましょう。
イギリスは セイロン島(スリランカ)とケープ植民地 を獲得しました。また、ウィーン議定書により ポーランド立憲王国 が復活することになり、ロシア皇帝がその国王を兼ねることになりました。
プロイセンはライン川中流域の ラインラント という工業地域を獲得し、オーストリアは ロンバルディア・ヴェネツィア を、オランダは 南ネーデルラント(ベルギー) を獲得しました。
次に、各国の 国家体制の変更 の内容を確認します。
ウィーン議定書では、オーストリアを盟主とする ドイツ連邦 の成立が認められました。ドイツ連邦はドイツ地域の国家連合であり、 神聖ローマ帝国が復活したわけではありません。
また、ウィーン議定書で スイス は 永世中立国 の地位を認められ、どんな戦争についても中立の立場をとることになりました。さらにフランスとスペインでは ブルボン朝が復活 した他、 オランダ王国 が成立することになったのです。
以上、ウィーン議定書の内容として 領土の変更 と 国家体制の変更 の2点に分けて説明しました。それぞれの内容をしっかり覚えておきましょう。
ポイントの3つ目は、「神聖同盟と四国同盟」です。
ウィーン会議によって成立した ウィーン体制 を維持するために成立した、 2つの同盟 に注目します。
ウィーン会議によって形成された、19世紀前半のヨーロッパの国際秩序を ウィーン体制 と呼びます。ウィーン体制のもとで各国は、 フランス外相タレーランが提唱した正統主義の考え方 に基づき、フランス革命前の状態、つまり政治的には 絶対王政 を復活させようとしました。
しかし、絶対王政を復活させようとすれば 市民が反抗することが目に見えています。 それを見越して、市民の反発を押さえつけ、ウィーン体制を維持するための組織が結成されました。その名も「 神聖同盟 」、そして「 四国同盟 」です。
1815年、ロシアの アレクサンドル1世 の提唱で 神聖同盟 が成立しました。この同盟は キリスト教の精神 に基づき、キリスト教の国家どうしが互いに助け合うという名目で結成されました。神聖同盟には、イギリス・オスマン帝国・ローマ教皇を除く全ヨーロッパ君主が参加しました。
神聖同盟が成立した後、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンにより 四国同盟 が結成されました。四国同盟はヨーロッパの現状維持・平和維持を目的に結成され、 革命運動が起こった場合は武力干渉を行う という役割を担っていました。この同盟は、後に フランス がメンバーに加わり 五国同盟 と改称しました。
神聖同盟と四国同盟。ウィーン体制維持のために作られた2つの同盟を、しっかり覚えておきましょう。
今回はウィーン体制の成立についての学習でした。
それでは、内容を確認していきましょう。
1814~1815年、フランス革命やナポレオン戦争で混乱したヨーロッパを立て直すために ウィーン会議 が開催されました。主催者はオーストリアの メッテルニヒ です。
フランスの外相 タレーラン は、フランス革命前の状態を理想とする 正統主義を提唱しました。これはウィーン会議の基本理念となりました。
各国はフランス革命以前の状態、つまり政治体制でいえば 絶対王政の時代に回帰する ことを確認しました。ウィーン会議の内容は ウィーン議定書 にまとめられました。
ウィーン会議の後、正統主義の考え方に基づいて、領土や国家体制の変更が行われました。
イギリスは、 セイロン島 と南アフリカの ケープ植民地 を獲得しました。ちなみにセイロン島は現在の国名をとって スリランカ と呼ばれることもあります。
ロシア皇帝は ポーランド立憲王国 の国王を兼ねることとなりました。そしてオーストリアを盟主とした ドイツ連邦 が成立しました。
絶対王政へ回帰しようとすれば、当然人びとの反発が予想されます。そこで各国は反対運動に備え、ウィーン体制を支える 2本の柱 をつくりました。
1つ目は、ロシアの皇帝 アレクサンドル1世 が提唱した 神聖同盟 です。キリスト教の友愛精神を基調とする君主間の同盟が結成されました。
2つ目は、軍事的・政治的同盟である 四国同盟 です。 イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセン の四国が、暴動鎮圧のために軍隊を派遣することを約束したのです。後に フランス が加盟し、 五国同盟 となりました。
ウィーン体制の2回目。
今回は、「ウィーン体制への反発」について学習します。
ポイントの1つ目は、「自由主義運動とナショナリズム」です。
前回の授業ではウィーン体制について勉強しました。ヨーロッパ各国は、フランス革命やその影響で様々な権利を獲得した市民をおさえつけ再び国王の権力を拡大させようとしました。つまり絶対王政の復活を目指したのです。
絶対王政の復活をねらうウィーン体制に対し、市民たちは各地で反対運動を行いました。その中で、ポイント1ではヨーロッパで起きた反対運動を紹介します。
ウィーン体制への反発として、ヨーロッパでは絶対王政の束縛から逃れ、個人の自由を求める運動が起こりました。この運動を自由主義運動といいます。
ドイツではブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)、イタリアではカルボナリ(炭焼党)という組織が結成され、自由主義運動を展開しました。ただし、どちらの運動もオーストリア軍によって鎮圧され、失敗してしまいました。
スペインでは、憲法を制定して国王の力を制限しようとする動きが見られました。これをスペイン立憲革命といいます。また、ロシアでは皇帝の独裁政治に反対するデカブリストの乱が発生しました。ただし、スペイン立憲革命はフランス軍の干渉によって、デカブリストの乱はロシアの新皇帝ニコライ1世によって、それぞれ鎮圧されてしまいました。
自由主義運動に加えて、ウィーン体制の時代にはナショナリズム(国民主義)と呼ばれる運動が高まりました。ナショナリズムとは「国民」や「民族」といった仲間意識を重視し、他国や他民族による支配から独立を目指す運動のことです。
ナショナリズムの例として、1821年~1829年に起きたギリシア独立戦争が挙げられます。当時のギリシアはオスマン帝国、つまり**トルコ人に支配されていたのです。**ギリシアの人たちはオスマン帝国による支配を脱するため、ギリシア独立戦争を起こしました。
ギリシアはこの戦争に勝利し、独立を果たしました。1830年にはロンドン会議が開催され、ギリシアの独立は国際的にも承認されたのです。
以上、今回はヨーロッパで起きた、ウィーン体制に反発する動きについて勉強しました。個人の自由を求める自由主義運動と、国民や民族の独立を求めるナショナリズム(国民主義)、この2つの動きをしっかり覚えておきましょう。
ポイントの2つ目は、「ラテンアメリカ諸国の独立」です。
ウィーン体制への反発は、ヨーロッパにとどまらず ラテンアメリカ にも広がりました。ラテンアメリカとは カリブ海や南アメリカ大陸の国々が含まれる地域 のことです。今回は、ラテンアメリカ諸国が独立を果たしていく様子を紹介します。
1804年、カリブ海に浮かぶ小国 ハイチ がフランスからの独立を達成しました。ハイチは本当に小さな国なのですが、この独立には世界史的に大きな意味があります。ハイチは ラテンアメリカ諸国で初めて 独立を成し遂げたのです。
ハイチの独立を指導したのは、黒人の トゥサン=ルヴェルチュール という人物でした。ハイチは当時 フランス に支配されていたのですが、1789年から始まった フランス革命 の影響を受けて、黒人たちが 奴隷からの解放やフランスからの独立 を求めて蜂起したのです。
トゥサン=ルヴェルチュール自身は、独立運動の途中でフランスの ナポレオン軍 に捕まり、独立を果たす前に亡くなってしまいました。しかし、彼の活躍によってハイチはフランスからの独立を果たすことができました。
ハイチ独立後、ラテンアメリカの他の国でも独立運動がおこり、次々に独立が果たされることになりました。こちらを見てください。
19世紀前半には シモン=ボリバル の活躍によって、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ボリビアなどが独立を果たしました。このシモン=ボリバルという人物は、ラテンアメリカで生まれた 白人地主(クリオーリョ) でした。
シモン=ボリバルは、ナポレオンの対外遠征によりヨーロッパが混乱している状況を見て、この混乱を独立の好機ととらえました。当時ラテンアメリカの多くは スペイン によって支配されていたのですが、ナポレオンがスペインを支配したことで、その支配は弱まったのです。
ちなみに、シモン=ボリバルが独立を指導した ボリビア の国名は、彼の名前に由来しています。
シモン=ボリバルと同時期に サン=マルティン という人物も活躍しました。サン=マルティンも、シモン=ボリバルと同じく 白人地主(クリオーリョ)でした。サン=マルティンの指導によってアルゼンチン、チリ、ペルーが独立を達成したのです。
ここまで紹介した国以外にも、 メキシコ や ブラジル などが独立を果たしました。こちらを見てください。
以上のように、ウィーン体制への反発はヨーロッパにとどまらず ラテンアメリカ にも影響を与え、多くの国々が独立を果たすことになりました。
ここで一つ気になることがあります。ラテンアメリカ諸国が次々に独立を果たす様子を見て、アメリカやヨーロッパの指導者たちはどのような反応を見せたのでしょうか?こちらを見てください。
オーストリアの メッテルニヒ は ラテンアメリカの独立運動を弾圧しようとしました。 ラテンアメリカ諸国の独立を許すことで、独立や革命の動きがヨーロッパにも広がることを警戒したのです。
イギリスの カニング はラテンアメリカの独立に賛成の立場でした。彼はラテンアメリカを イギリスの製品市場にしようとしました。 つまり貿易相手として自国の製品を売りつけようと考えたのです。
アメリカの モンロー は 米・欧両大陸の相互不干渉 を提唱しました。アメリカ大陸の事情にヨーロッパ諸国が干渉することを否定し、オーストリアのメッテルニヒをけん制したのです。モンローが発表したこの声明を モンロー宣言(教書) といいます。モンロー宣言を受けて、オーストリアのメッテルニヒはラテンアメリカへの干渉を断念することになりました。
独立運動の指導者の活躍に加え、イギリスやアメリカが間接的に独立を支援したこともあって、ラテンアメリカ諸国は次々に独立を達成することができたのです。
今回はウィーン体制への反発についての学習でした。
それでは、内容を確認していきましょう。
ヨーロッパ各地では ウィーン体制に反発する動き が見られました。ドイツでは ブルシェンシャフト 、イタリアでは カルボナリ が運動を起こし、ロシアでは デカブリストの乱 が起こりましたがいずれも鎮圧されました。
ただし、ヨーロッパの中で例外的に独立を勝ち取った国がありました。 ギリシア です。
ギリシアは オスマン帝国 からの独立を求めて ギリシア独立戦争 を起こし、各国の支援もあって勝利しました。その後 ロンドン会議 が開催され、ギリシアの独立は国際的に承認されました。
ラテンアメリカでは ハイチ が独立を果たし、史上初めての黒人共和国となりました。ハイチ独立を指導したのは トゥサン=ルヴェルチュール という人物です。
彼は黒人でしたが、 白人地主 (クリオーリョ)であった シモン=ボリバルと サン=マルティン も独立運動を支援しました。2人によってベネズエラ・コロンビア・エクアドル・ボリビア・アルゼンチン・チリ・ペルーといった多くの国々が独立を果たしたのです。加えてメキシコや ブラジル も独立を果たしました。
オーストリアの メッテルニヒ はラテンアメリカの独立をおさえこもうとしましたが、イギリスは独立を支持する立場をとり、さらにアメリカの モンローが モンロー教書(宣言) を発表したこともあり、メッテルニヒは弾圧を断念しました。
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ウィーン体制の1回目。
今回は、「絶対王政時代への復帰」について学習します。