第 33 講 産業革命・アメリカ独立革命

産業革命
イギリス産業革命の時期は 1800 年プラスマイナス 30 年。1770 年~
(1)1830 〕年の(2)〔マンチェスター(3)リバプール 〕間の鉄道開通までということだ。

【イギリス産業革命の背景】(4)1763 〕年は(5)フレンチインディアン 〕戦争の(6)〔パリ 〕条約。イギリスはフランスから(7)カナダ 〕・(8)ミシシッピー川以東のルイジアナ〕を獲得またスペインから(9)フロリダ〕を獲得した。北米とインドにおけるイギリスのフランス・スペイン・オランダにたいする優位が確定した年が 1763 年だ。

 

16 世紀以降のイギリス資本の蓄積は奴隷貿易や毛織物マニファクチュアによるもの。また国内の 豊富な資源,さらに原料供給地・販売市場としての植民地を有した。17 世紀以降は市民革命による 経済の自由化やギルドの解体が進んだ。18 世紀半ばの(10)〔農業革命 〕,たとえば(11)〔ノーフォーク農法 〕(四輪作農法, 大麦→クローヴァー→小麦→かぶ)のような農業技術の変化は(12第2次囲い込み運動 〕運動を生み(13〔ヨーマン (独立自営農民)は都市へ出て賃金労働者となり産業革命の労働力となった

 

【産業革命の展開=繊維革命

産業革命とは道具による生産から機械による生産への転換であり,また動力の転換のことだ。だから 1811 年から(14)〔ラダイト〕(機械打ち壊し運動)が起こる。

産業革命はまず木綿工業から始まった。インド = キャラコ(木綿)の需要の増大は従来の毛織物業界にとっては打撃であった議会は 1700 年にインド = キャラコの輸入を,1720 年に使用を禁じた

(15) (16) 1733 〕年に 〔ジョン・ケイ 〕が飛びおさ(飛び杼)を発明し 織 布(しょく ふ)の作業能率は倍加したが,このことが原料の綿糸不足を招き紡績部門の一連の発明を促した。

 

(17)多軸<ジェニー>紡績 〕機(ハーグリーヴズ)→(18)水力紡績 〕機(アークライト)→(19)ミュール紡績 〕機(クロンプト)(20)力織機 〕(カートライト)→(21)綿繰り機 〕(ホィットニー・米国)。

とりわけミュール紡績機こそイギリス産業革命の偉業である。糸の細さがインド = キャラコを抜いたのだ。イギリスの木綿をインドに売ることが可能になった。マンチェスターで織った木綿製品をリヴァプール港からインドへ売る。

 

これこそが産業革命のエッセンスつまりイギリス産業革命とはインド木綿という外圧にたいするイギリス産業界のレスポンス(返答),木綿の輸入代替産業を興すための努力というこ とになる。マンチェスターに資金が集まる。

以上が革命だ。


動力革命交通革命

水力から 蒸気機関に動力は移行する。 18 世紀初期に(22)ニューコメン〕が蒸気力による排水用ポンプを発展させていたが(23)ワット〕がこれを改良し原動機としての(24)蒸気機関〕を 1781 年に完成した。 工業の発展は石炭・原料・製品を大量に輸送する交通機関の発達を促した。

1814 年(25)スティーブンソン〕は実 用(26)蒸気機関車〕を発明。(1804 年にレールを走る蒸気機関車は(27)トレヴィシック〕が発明。)

1825 年に(28ストックトン〜ダーリントン〕間で試験走行。(291830〕年には(30〔マンチェスター〜リバプール〕間で営業運転。馬車から鉄道の時代にはいった。


2 アメリカ独立革命と【大航海時代】

 ヨーロッパ人が「地理上の発見」と呼んだ事業の背景には学術の進歩があり,イタリア人(1)トスカネリ〕の地球球体説などがその代表だ。また,ヨーロッパ諸国が東洋との直接交渉を望 んだこともその要 因 だ。( 2)ジェノバ〕出身の( 3)コロンブス〕はスペイン女 王( 4)イザベル]の援助を受け(5)〔1492〕年にスペインの(6)〔パロス〕港をカラベル船サンタ = マリア号で出航,(7)〔サン=サルバドル〕に到着。 1493 ~ 1504 年まで3回渡航し中南米海岸まで到達。その影響で(8)〔マゼラン〕とその部下が 1519 ~ 22 年にかけて世界一周した。
フィレンツェ生まれの
(9)アメリゴ=ヴェスプッチ〕は 1497 年以来4回にわたって特に中南米を探検,航海報告書 をメディチ家へ送った。16 世紀初ドイツ人(10)ミューラー〕が『世界誌入門』のなかで“アメリカ”と 命名した。

 

【価格革命と商業革命】ヨーロッパ列強の植民地獲得抗争が展開した。アメリカ銀が大量に流入したので貨幣価値が下落,物価は約3倍に騰 した。このような(11)価格革命〕が,南ドイツの銀を独占 していた(12)フッガー家や銀の流入によるインフレーションが固定地代に依存していた封建領主層を 没落させた。また(13)〔商業革命〕という(14)ヨーロッパ商業圏の重心がヴェネツィア,ジェノヴァなど地中海からリスボン,セビーリャ,アントワープなど大西洋岸に移る〕変化を導いた。

【コンキスタドール】スペインの(15)〔コルテス〕は(16)1521 〕年に(17)アステカ〕帝国の首都(18)テノチティトラン〕 を征服し,また(19)ピサロ〕は(20)1533〕年にペルーを征服し(21)インカ〕帝国を滅ぼした。(22)1545〕 年に(23)ポトシ銀山〕が発見されるとインディオやのちにアフリカ人奴隷が酷使された。植民者が国から先住民の教化と保護を条件に土地・住民の統治を委託され賦役労働を課すのが(24)エンコミエンダ〕,スペインの聖職者(25)〔ラス・カサス〕がインディオへの布教と奴隷化防止に尽力した。その著作が『インディアスの破壊についての簡潔な報告』。しかしこれにより西アフリカからの黒人奴隷の流入が加速した。 ポルトガルの(26)カブラル〕は(27)〔1494〕年の(28)トルデシリャス条約〕にもとづき,1500 年(29)ブラジル〕を獲得, 経営方針はスペインとほぼ同じだった。


オランダは 1621 年に西インド会社を設立,ギアナ,西インド諸島を経営した。(30)〔1626〕年に は(31)〔 〕流域に(32)〔 〕と(33)〔 〕を建設したが,(34)〔 〕年の第2次(35)〔 〕戦争で喪失した。

【イギリス】1497 年には(36)〔 〕の命令でイタリア人(37)〔 〕が(38)〔 〕を探検。16 世紀後半には国王(39)〕と(40)〕が(41)〕に進出したがまもなく放棄。次の国王(42)

の 1607 年にヴァージニア会社がジェームスタウンを建設。こうして(43)〔 〕植民地が誕生。

1619 年にヴァージニア議会が置かれた。

新大陸進出は太平洋進出とインド貿易が目的だった。同王の(44)〔 〕年には(45)〔 〕と呼(46) (47)  (48) (49) (50)ばれる 〔 〕( 〔 〕 教 徒)が 〔 〕で 〔 〕から 出 帆し 〔 〕植民地を

建設。また少し後の 1629 年には(51)〔 〕植民地が(52)〔 〕の町とともに建設される。これら の植民地がまとまって,いわゆる(53)〔 〕を形成した。そこにおいては,信仰の自由,経済の自 由を希求し,参政権をもつ全住民参加の(54)〔 〕という制度があった。1636 年には(55)〔 〕に 牧師養成のための(56)〔 〕が設立された。 1664年には第2次英蘭戦争において(57〔 〕を占領し(58〔 〕と改名,1681年には(59〔 〕教徒(60)〔 〕が(61)〔 〕植民地を建設。1732 年の(62)〔 〕植民地をもって(63)〔 〕の植民地が完成した。各植民地にイギリス議会政治の伝統にならって設けられた住民代表からなる議会 を(64)〔 〕という。

【フランス】1534 年以降カルティエが新大陸を探検,1603 年の国王(65)〔 〕のとき(66)〔 〕 が(67)〔 〕川流域を探検し 1608 年(68)〔 〕(川の挟まる地)の要塞を築きニューフランスの 基礎を築きビーバーの毛皮貿易の拠点とした。
ルイ 14 世のときには
(69)〔 〕が(70)〔 〕川をくだって(71)〔 〕植民地が形成されること になる。植民地の性格としては王室の直接支配で,カトリックが多く,移住者の大部分は毛皮取引 が目的の大商人や宣教師であった。メキシコ湾河口に建設されたのが(72)〔 〕だ。

 

 

 

解答

(30)1626 (31)ハドソン川

(32)ニューネーデルラント植民地 (33)ニューアムステルダム (34)1664 (35)英蘭 (36)ヘンリ7世 (37)カボット父子 (38)ニューファンドランド (39)エリザベス1世 (40)ウォルター = ローリ (41)ヴァージニア (42)ジェームズ1世 (43)ヴァージニア

 

(44)1620 (45)ピルグリム = ファーザーズ (46)ピューリタン (47)清 (48)メイフラワー号 (49)プリマス (50)プリマス (51)マサチューセッツ (52)ボストン (53)ニューイングランド植民地

(54)タウンミーティング 

(55)ボ ス ト ン

 

(56) ハ ー バ ー ド 大 学 (57) ニ ュ ー ア ム ス テ ル ダ ム (58) ニ ュ ー ヨ ー ク (59)クウェーカー (60)ウィリアム = ペン (61)ペンシルヴェニア (62)ジョージア (63)13 (64)植民地議会

 

(65)アンリ4世 (66)シャンプラン (67)セントローレンス (68)ケベック

 

(69)ラサール (70)ミシシッピ (71)ルイジアナ (72)ニューオーリンズ 

 


【第2次英仏百年戦争】

新大陸における英仏の抗争は,1689 ~ 97 年の(73)〔 〕戦争(これは欧 州における(74)〔 〕戦争と並行),つぎの1702 ~ 13 年の(75)〔 〕女王戦争((76)〔 〕戦争と並 行 ) と 展 開した。後 者においては(77)〔 〕年 の(78)〔 〕で(79)〔 〕,(80)〔 〕,(81)〔 〕をイギリスはフランスから獲得した。さらに 1744 ~ 48 年まで,欧州の(82)〔 〕戦争と並行して(83)〔 〕戦争,(84)〔 〕戦争に並行して(85)〔 〕戦争,後者の(86)〔 〕でイギリスは(87)〔 〕,(88)〔 〕 を獲得した。 これら新大陸 に お け る 4 つの戦争 は(89)〔 〕((90)〔 〕年~(91)〔 〕年の前半戦といえる。

イギリスの内政干渉はフランス・スペインほどではなかった。前述のように北部では(92)〔 〕(93) という直接民主政の地方自治が,南部では 〔 〕というイギリス的代議制があった。

1639 年にはのちの憲法の基礎となったコネティカット基本法が制定された。 経済面ではプリマスを中心としたニューイングランド地方では,漁業・造船・海運・毛皮取引・(94) ねん き ほうこう (95)〔 〕の製造など。南部では 1619 年にはじめて黒人年季奉公人が 〔 〕州に移入され(96)  (97)〔 〕という産業の形態が発達していた。品目は米・藍・ 〔 〕など。

 

【アメリカ独立革命】

イギリス本国の植民地統治政策はいわゆる(98)〔 〕主義政策でそれはオランダ対策の 1651 年の(99)〔 〕にはじまって,1699 年の羊毛品法,1732 年の帽子法,1733 年の(100) 〔 〕,1750 年の鉄法を実施しつつ,王領植民地を増加させるなどして漸次政治的圧力を強化した。 とりわけ(101)〔 〕戦争が終結した(102)〔 〕年には国王(103)〔 〕が(104)〔 〕山脈以西 への白人の移住を禁止する宣言を出したり,1764 年の(105)〔 〕,65 年の(106)〔 〕が出されると、植民地側は反動化しヴァージニア決議によって英国製品不買協定を結ぶ。背景には新大陸における(107) (108)〔 〕の勢力が著しく減退したので本国の保護が不要になったことがある。〔 〕らは“No  taxation without representation(109)〔 〕”と主張して 1766 年印紙法は撤廃された。1767 年には (110)制裁規定や歳 入 法や関税局の設置や海事裁判所の拡充 の4法を定めた〔 〕諸法が発令するも1770 年には(111)〔 〕税のみ残して廃止された。


 フランス革命

1989 年のベルリンの壁崩壊と 1991 年ソ連邦の崩壊は,「平等」を理念として掲げた人類の歩み方

の限界を明らかにした。ソ連邦を産み落としたロシア革命を第2次平等革命とみなし,そのプロトタイプ(範型)であるフランス革命を第1次平等革命と呼ぶのは妥当であろう。

フランス革命の基礎知識として,まず,❶(1)〔 〕→❷(2)〔 〕→❸(3)〔 〕→

(4) (5) 
❹ 〔 〕→❺ 〔 〕と覚え,❶~❹がフランス革命,❸~❺が第1共和政だと把握する。

次いで(6)〔 〕派が立憲君主主義派(7)〔 〕派と(8)〔 〕派が共和主義派

革命前の体制を(9)〔 〕(旧体制)という。
 (10)

ルイ 14 世以来の国家財政の窮迫,宮廷の浪費,ルイ 16 世が即位してすぐの〔 〕への参加 , 英仏通商条約(1786),天候不順(1788)でブルボン家の国家財政は完全に破綻した。

 

【三部会招集と国民議会成立】(11)〔 〕の自由主義的改革による財政改革(12)〔 〕の特権身 分への課税の主張なども効を奏さず,(13)〔 〕年5月に 174 年ぶりに(14)〔 〕を召集したが議 決方法で対立した。6月,(15)〔 〕,ラファイエット,『(16)〔 〕』を出版した(17)〔 〕ら自 由主義貴族(フイヤン派)に下級僧職者が加わって(18)〔 〕の成立を宣言,(19)〔 〕で「憲法 を制定するまで解散しない」と誓う。国民議会は(20)〔 〕と改称した。つまりフランス革命の当 初の目標は,立憲君主政体にすることだった。その証拠に国民議会が定めた三色旗(トリコロール) の真ん中の白はブルボン家の色だ。ちなみに赤と青はパリ市の色。

ぼっぱつ (21) (22) (23)
【革命勃発】 〔 〕月 〔 〕日に 〔 〕が起き,それが全国に波及,農民運動となっ

て領主の館を襲い,租税台帳などを焼いた(大恐怖)。8月4日には(24)〔 〕がなされた。農奴 は領主裁判権や十分の一税などの封建的身分支配からは解放され(政治的には自由)たが,地代は 20 ~ 25 年分の一括前納だったので自作農にはなれなかった。8月 26 日には(25)〔 〕が採択。 これは(26)〔 〕や(27)〔 〕の啓豪思想の影響を受け(28)〔 〕らが起草した 17 条からなるも ので(29)〔 〕の神聖不可侵,人間の自由と平等などが謳うたわれている。(30)〔 〕=(31)〔 〕で は国王一家がパリのテュイルリー宮に連行された。

解答

(73)ウィリアム王 (74)ファルツ (75)アン (76)スペイン継承 (77)1713 (78)ユトレヒト条約 (79)ニューファンドランド (80)アカディア (81)ハドソン湾地方 (82)オーストリア継承 (83)ジョージ王 (84)七年 (85)フレンチインディアン (86)パリ条約 (87)カナダ (88)ミシシッピ川以東のルイジアナ (89)第2次英仏百年戦争 (90)1689 (91)1815

 

(92)タウンミーティング (93)カウンティ制 (94)ラム酒 

(95)ヴァージニア (96)プランテーション (97)タバコ

 

 

 

 

 

 

(98)重商 

(99)航海法 (100)糖蜜法 (101)七年 (102)1763 (103)ジョージ3世 (104)アパラチア (105)砂糖法 (106)印紙法 (107)フランス (108)パトリック = ヘンリ (109)代表なくして課税なし (110)タウンゼンド (111)茶 


 

 

 

 

 

 

 

解答

 

 

 

 

 

 

 

 

(1)国民議会 (2)立法議会 (3)国民公会 (4)総裁政府 (5)統領政府 (6)フイヤン (7)ジロンド (8)ジャコバン

 

 

(9)アンシャン = レジーム

 

 

 

(10)アメリカ独立戦争

 

 

 

(11)テュルゴー (12)ネッケル (13)1789 (14)三部会 (15)ミラボー (16)第三身分とは何か (17)シェイエス (18)国民議会 


(19)テニスコート (20)憲法制定議会 (21)7 (22)14 ろうごくしゅうげき

(23)バスティーユ牢獄 襲 撃 (24)封建的特権の(有償)廃止宣言 (25)人権宣言(人間および市民の権利宣言) (26)アメリカ独立宣言 (27)ルソー (28)ラファイエット (29)所有権 = 私有財産 (30)十月事件 (31)ヴェルサイユ行進