5.鎌倉時代:鎌倉時代の政治ーその1
鎌倉時代は、途中で政治の構造が変わります。
これを理解しないまま勉強を進めてしまうと、鎌倉時代自体がよく分からなくなってしまうので、まずはこの全体像を理解しましょう。
鎌倉時代は、最初は 将軍 独裁による政治が行われます。
とはいっても、鎌倉幕府を打ち立てた初代将軍の 源頼朝 の時代だけです。
独裁とは言っても、強いカリスマをもった頼朝に、皆が喜んで従っていた、という形です。
頼朝の死後は、頼朝の子どもたちではなく、 北条氏 が中心となって政治をする 執権 政治(しっけんせいじ)の時代となります。
具体的には、 北条時政 (ほうじょうときまさ)という人物が、頼朝の奥さんの父(つまり頼朝の義理の父)として実権を握り、以後北条氏が政治の中心に立つようになります。
鎌倉時代の後期になると、北条氏の中でも 得宗 (とくそう)と呼ばれる人たちが強い権力を握って政治をするようになります。
これが、 得宗 専制の時代です。
このように、将軍、執権、得宗と権力が移っていく時代、という意識をしっかりと持っておくようにしましょう。
前のポイントで見たように、将軍独裁の時代は源頼朝の時代だけで、頼朝の死後は 執権 政治の時代となります。
このポイントでは、執権政治の始まりと、初代執権の 北条時政 (ほうじょうときまさ)の時代について見ていきます。
まず、 北条時政 という人物がどういう人物だったか、知っておきましょう。
北条時政は、頼朝の奥さんである 北条政子 (ほうじょうまさこ)の父、つまり頼朝の義理の父に当たる人物です。
元々は頼朝が平治の乱後に伊豆に流されたとき、頼朝を監視する役目を持っていた人物でした。
この時政が、頼朝の死後、権力を握っていくこととなります。
時政は頼朝の死後、権力を強固なものとするため、平安時代に藤原氏が行ったように、 他氏排斥 (ライバル潰し)を行っていきます。
1200年の梶原景時の乱、1203年の比企能員の乱、1205年の畠山重忠の乱と、次々と反乱を起こさせ、それを潰す形で、鎌倉幕府内部の有力なライバルたちを倒していきました。
二代将軍の源頼家(みなもとのよりいえ)は、父の後を継ぎ、自分で政治を行っていこうとします。
しかし、権力を握りたい北条時政によって将軍の職を追われ、1203年、代わって弟の 源実朝 (みなもとのさねとも)が将軍に就きます。
実朝は政治に興味がなかったため、時政にとって都合がよかったのです。
直後、時政は政務を行う 政所 (まんどころ)の別当(長官)に就きます。
これにより、政所には貴族出身の 大江広元 と武士出身の北条時政という形で、別当が二人、という体制に変わりました。
ちなみに、この 政所 は当初、 公文所 という名前でしたね。
更に時政は、実朝が将軍に就いた翌年、伊豆修善寺に幽閉した先代将軍の源頼家を暗殺します。
こうして、北条時政はライバルを潰し、将軍も押さえ込み、強い権力を握りました。
時政の跡を継いで2代目執権となったのは、息子の 北条義時 (ほうじょうよしとき)です。
義時は時政と同様、 ライバル潰しを行います 。
義時は、和田合戦で、御家人を統率する 侍所 の初代別当であった 和田義盛を破りました。
そして義時は、和田義盛が就いていた侍所別当に就任します。
政所別当の座は時政から引き継いでいたので、義時は侍所と政所の別当を兼務することになりました。
この、 侍所と政所の別当を兼務する人物 を 執権 と呼ぶようになります。
こうして 執権 という地位がここで確立し、これ以降、 北条氏が代々引き継いでいく ことになります。
ちなみに、執権という地位自体は義時の時代に確立しましたが、前の時政もさかのぼって、初代執権といわれます。
3代将軍 源実朝 は、政治に興味がなかったとはいえ、頼朝の子として人気もある程度持っていました。
しかし実朝は、 鶴岡八幡宮 (つるがおかはちまんぐう)で、2代将軍の源頼家の子である 公暁 (くぎょう)の手により殺害されてしまいます。
こうして実朝が死んだことで、北条氏が幕府を掌握することに成功しました。
そのためこの事件も、北条義時による陰謀ではないか、といわれています。
鎌倉幕府内での権力を固めた北条氏ですが、このときの鎌倉幕府はまだ日本全土を支配していたわけではありません。
東国(東日本)は、 北条義時 を中心とする幕府の支配下でした。
しかし、西国(西日本)はまだ朝廷の支配下で、 後鳥羽上皇 (ごとばじょうこう)による院政などが行われている、という状況でした。
この状況を、公武二元支配、とも言います。
こうして、北条義時と後鳥羽上皇は自然と対立するようになり、 1221年 、ついに朝廷と幕府の間で 承久の乱 という戦いが起こります。
承久の乱 の発端は、朝廷の 後鳥羽上皇 が 北条義時 追討の院宣を出したことでした。
これを受けた義時は、後鳥羽上皇が兵を集めるのに先んじて、自分の子の 北条泰時 と弟の 北条時房 の軍を派遣しようとします。
元々御家人は、 戦時になると将軍の下に参じて戦いに参加 する 奉公 を行う必要がありました。
しかしながら当初、朝廷と戦うこともあって御家人の士気は低く、幕府の元には数十人しか集まらなかったようです。
そこで、頼朝の奥さんである 北条政子 が御家人たちに、「今戦わないで、いつ幕府と頼朝に恩返しをするんだ!」という檄をとばしました。
これによって御家人たちが奮起し、 北条泰時 と 北条時房 に率いられて京都に攻め入り、結果は幕府の圧勝に終わりました。
承久の乱 以降、幕府の支配地域は、九州を除いた西日本一帯にまで大きく広がっていくことになります。
このように、鎌倉時代前半の大きなターニングポイントとなった 承久の乱は、しっかりと押さえておきましょう。
ここまでの内容を、練習問題で確認していきましょう。
鎌倉時代の政治は、大きく3つの時期に分けられます。
初期は 将軍 による独裁、中期は 執権 による政治、後期は北条氏の 得宗 による専制政治が行われました。
執権 、 得宗 はいずれも、北条氏が就いた地位です。
初代将軍の源頼朝が亡くなった後、2代将軍 源頼家 は北条時政によって将軍の座を追われてしまいます。
代わって3代将軍となったのが 源実朝 です。実朝はあまり政治に関わらなかったため、北条時政が力を握っていきます。
その後、将軍の座を追われた 源頼家 も、幽閉先の伊豆修禅寺で殺害され、北条時政はより権力を増しました。
時政の後、和田義盛を倒して 執権 の地位を確立した北条義時は、権力を更に固めていきます。
この義時の時代に、3代将軍実朝も、相模国の 鶴岡八幡宮 で、頼家の息子であった公暁により殺害されました。
頼家が殺された場所である、伊豆の修禅寺との区別をしっかりとつけましょう。
西国を支配する 後鳥羽上皇 と東国を支配する 北条義時 の間で起こった戦いが 承久の乱 です。
結果は 北条政子 の檄を受け、先制攻撃を仕掛けた幕府の圧勝に終わりました。
戦いが起こった 1221年 という年号も、しっかり押さえておきましょう。
鎌倉:北条:執権政治
今回は、引き続き鎌倉時代の政治について見ていきます。
まずは、 北条義時 の時代に起きた大きな戦い、 承久の乱 の結果と、それによって幕府がどう変わっていったか、というところから見ていきます。
1221年 の 承久の乱 で、北条義時を中心とする幕府が、後鳥羽上皇を中心とする朝廷側に圧勝しました。
その結果、幕府はまず、朝廷側の中心人物を次々と排除していきます。
後鳥羽 (ごとば)、土御門(つちみかど)、順徳(じゅんとく)の三上皇を、それぞれ 隠岐(おき)、土佐、佐渡へ配流します。
隠岐は島根県の北方にある隠岐諸島、土佐は今の高知県、佐渡は新潟県沿岸にある佐渡島のことです。 旧国名の、現在の位置 も、できれば地図帳や図録などで確認しながら押さえておきましょう。
さらに、天皇になったばかりの仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)も、後堀河天皇(ごほりかわてんのう)へ譲位させられます。
こうして、朝廷側の中心人物は、全員散り散りになってしまいました。
幕府は、上皇の配流や天皇の譲位で朝廷の影響力が弱まった京都に 六波羅探題 (ろくはらたんだい)を設置し、朝廷の監視や、政治裁判の拠点としました。
幕府ができた当初は京都守護がありましたが、その代わりにこの六波羅探題が設置されました。
初代の六波羅探題は、北条泰時と北条時房の二人 です。
北条氏が直々に行って、西国の政治を行った、ということです。
こうして、幕府は今までは朝廷が持っていた 西国の支配権を確立 しました。
さらに、六波羅探題を拠点として、 西国に「幕府の家来」=「御家人」=「地頭」を設置 していきます。
承久の乱後、幕府が新たに手に入れた土地を与えて地頭にした御家人を、 新補地頭(しんぽじとう)といいます。
幕府は、この 新補地頭 になりたい人を増やすため、 新補率法 を定めます。
これは、土地の面積一反ごとに五升の米を追加で徴収できる、というものでした。
つまり、 新補地頭になった人は、自分の土地から多く税を取って、自分の物にしていいですよ、というボーナスをつけた のです。
こうして、幕府は朝廷の権力を弱め、六波羅探題を設置し、新補地頭を次々と任命して勢力を強めていきました。
2代執権の北条義時が亡くなると、その後を継いで息子の 北条泰時 (ほうじょうやすとき)が執権となります。
このポイントでは、承久の乱で活躍し、乱後は六波羅探題となっていた泰時が鎌倉に戻ってきたて行った政治について、見ていきましょう。
北条泰時は執権となりましたが、同時に執権を補佐する 連署 (れんしょ)という役職を設置します。
初代連署は、泰時と共に承久の乱で幕府を攻め、六波羅探題となっていた 北条時房です。
将軍は既に権威を失っていたので、 政治の中心として執権が、その補佐として連署がいる 、という状況になりました。
また泰時は、政務・裁判を話し合いで決めるための機関として 評定衆 (ひょうじょうしゅう)を設置しました。
これまでも、有力な御家人の合議によって政治が動かされていましたが、幕府の機関として正式に設立したことになります。
ちなみに、評定衆は13人で構成されました。
3代将軍の源実朝が殺害された後、将軍の座は空席となっていました。
周囲の反発を避けたい泰時は、自身が将軍に就任することはせず、形だけで力を持たない飾りの将軍を、身分の高い藤原氏から連れてきます。
これが 摂家将軍(藤原将軍) です。初代の摂家将軍となったのは、九条頼経(くじょうよりつね)という人です。
当時の藤原氏は、近衛(このえ)・一条・二条・九条・鷹司(たかつかさ)の五摂家に分裂してしまっていました。
ちなみに、この5家のうち、筆頭格であったのは近衛家です。
北条泰時 の時代が続く中、 貞永式目(御成敗式目) (じょうえいしきもく(ごせいばいしきもく))という法律が作られます。
このポイントでは、貞永式目について詳しく見ていきましょう。
1232年 、泰時は、初めて武士のための法律を制定しました。
これが 貞永式目(御成敗式目) です。
文字が読めない武士にも理解できる、平易なものでした。
重要なことは、貞永式目が 武士だけを対象とする法律(武家法) であることです。
武士、つまり幕府と御家人にしか適用されない内容であった、というわけです。
そのため、朝廷の定めた公家法(律令など)、荘園の法律である本所法なども同時に存在していました。
貞永式目は51ヶ条で構成され、内容は 守護地頭の職務 や地頭同士の 所領問題の解決法 が中心となっていました。
武士のための法律なので、一般の農民や商人についての内容は含まれていませんでした。
この51ヶ条でまとめられているのは、「 道理 」と「 先例 」と呼ばれたものです。
道理 とは、武家社会の慣習について記したものです。
道理 とは、源頼朝以来の政治・裁判を参考にして、対応をまとめたものです。
貞永式目は制定後も、何度か項目が追加されることになります。
この追加法を 式目追加 と呼びます。
ちなみに、条文の数である「51」という数にも意味があります。
飛鳥時代に、十七条の憲法などがあったことを覚えているでしょうか。
この「17」という数字にあやかって、その3倍の「51」にしたと言われています。
では、今回の内容を練習問題で確認していきましょう。
承久の乱の結果、 後鳥羽 、土御門、順徳の三上皇が配流され、そのうち 後鳥羽上皇は隠岐(現在の島根県)に流されました。
また、京都に 六波羅探題 が設置され、幕府が西国の支配権を確立しました。
初代六波羅探題の北条泰時は後の3代執権、時房がその補佐役である連署に就任することになります。
3代執権北条泰時の代になると、執権の補佐である 連署 と、13人の合議制の機関である 評定衆 が正式に設置されました。
泰時が定めた初の武家法である 貞永式目 (御成敗式目)は、 1232年 に制定されました。
貞永式目の51ヶ条は、武家社会の慣習である 道理 と頼朝以来の政治・裁判の内容である 先例 で構成されていました。
今回は、承久の乱以後、 北条泰時 の政治を中心に見てきました。
今後も、似たような名前の北条氏が出てきますので、
北条泰時のときに連署・評定衆が設置され、貞永式目も制定された 、としっかり関連付けて覚えておきましょう。
鎌倉時代ー確認テスト(2)
今回は、鎌倉幕府の政治の前半部分について、確認テストをやっていきましょう。
将軍を補佐する執権に代々就いた北条氏は、他の有力な御家人を排斥していました。
2代執権の 北条義時 は、1213年に 和田義盛 を滅ぼし、義盛の 侍所別当 の地位を引き継ぎます。
こうして北条義時は、この侍所別当と、親の北条時宗から引き継いだ政所別当を兼任し、 執権 の地位を確立しました。
義時はさらに権力を高めるため、1219年に謀略を打ちたて、3代将軍 源実朝 を、相模国の 鶴岡八幡宮 で暗殺しました。
鎌倉幕府成立後も、西国は朝廷の支配下にありました。
そのなかで、西国を支配していた 後鳥羽上皇 と、東国を支配していた 北条義時 の対立から起こった戦いが 承久の乱 です。
幕府はこの戦いに圧勝し、その後西国の支配権を確立します。
3代執権の 北条泰時 は、執権の補佐役である 連署 という役職を新設し、初代連署に北条時房が就きました。
時房は、泰時と共に承久の乱や六波羅探題として活躍した人物です。
また泰時は、政務や裁判のための合議制の機関である 評定衆 を正式に設置しました。
それまでも合議で政治は行われていましたが、正式に機関として設置されたのはこのときです。
次に、一問一答形式の問題で確認していきましょう。
鎌倉幕府の初代執権は、 北条時政 です。
時政は、娘の政子を初代将軍源頼朝に嫁がせ、間に生まれた子どもを次の将軍にします。
時政は幕府内で有力な他氏を排斥するとともに、自分の孫でもある2代将軍の 源頼家を幽閉します。
頼家は1204年、幽閉されていた 伊豆修禅寺 で殺害されています。
3代将軍の 源実朝 が殺害された 鶴岡八幡宮 との区別をつけるようにしましょう。
承久の乱の結果、幕府が大勝し、敗北した朝廷側にいた三人の上皇が配流されました。
そのうち、 隠岐 に流されたのは 後鳥羽上皇 です。
他には、土御門上皇が土佐に、順徳上皇が佐渡に流されています。
また、幕府は朝廷を監視し西国支配を確立するため、京都に 六波羅探題 を設置しました。
それまでは、京都守護というものが置かれていました。
初代六波羅探題が 北条泰時 と 北条時房 であることも押さえましょう。
そして承久の乱の後、新たに置かれた地頭を 新補地頭 といいます。
3代執権北条泰時は、 1232年 に、最初の武家法である 貞永式目(御成敗式目) を制定しました。
貞永式目の基準には、武家社会の慣習などの 道理 と、頼朝以降の政治・裁判の 先例がありました。
最初の武士のための法律として、しっかり押さえておきましょう。
最後の問題は、二つの文の正誤を問う問題です。
元となったセンター試験では、両方合っていないと点数にならないので、そのつもりで解いてみましょう。
御成敗式目(貞永式目)について、AとBの文がそれぞれ正しいか、誤っているかを判定する問題です。
Aの文は、正しい文(○)です。
文にあるように、貞永式目は、武家社会の慣わしである 道理 と、頼朝以来の政治・裁判の記録である 先例 を基準に作られたものです。
ちなみに、この後貞永式目に追加されていく法律は、 式目追加 と呼ばれます。
Bは誤り(×)です。
貞永式目は 武家法 であり、その対象は武士に限られます。
従来の律令や公家法、荘園の法律である本所法などを否定するものではなく、これらは貞永式目と同時に使われ続けていました。
鎌倉時代の政治ー2
今回は、引き続き鎌倉時代の政治について見ていきます。
まずは、 北条義時 の時代に起きた大きな戦い、 承久の乱 の結果と、それによって幕府がどう変わっていったか、というところから見ていきます。
1221年 の 承久の乱 で、北条義時を中心とする幕府が、後鳥羽上皇を中心とする朝廷側に圧勝しました。
その結果、幕府はまず、朝廷側の中心人物を次々と排除していきます。
後鳥羽 (ごとば)、土御門(つちみかど)、順徳(じゅんとく)の三上皇を、それぞれ 隠岐 (おき)、土佐、佐渡へ配流します。
隠岐は島根県の北方にある隠岐諸島、土佐は今の高知県、佐渡は新潟県沿岸にある佐渡島のことです。 旧国名の、現在の位置 も、できれば地図帳や図録などで確認しながら押さえておきましょう。
さらに、天皇になったばかりの仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)も、後堀河天皇(ごほりかわてんのう)へ譲位させられます。
こうして、朝廷側の中心人物は、全員散り散りになってしまいました。
幕府は、上皇の配流や天皇の譲位で朝廷の影響力が弱まった京都に 六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置し、朝廷の監視や、政治裁判の拠点としました。
幕府ができた当初は京都守護がありましたが、その代わりにこの六波羅探題が設置されました。
初代の六波羅探題は、北条泰時と北条時房の二人 です。
北条氏が直々に行って、西国の政治を行った、ということです。
こうして、幕府は今までは朝廷が持っていた 西国の支配権を確立 しました。
さらに、六波羅探題を拠点として、 西国に「幕府の家来」=「御家人」=「地頭」を設置 していきます。
承久の乱後、幕府が新たに手に入れた土地を与えて地頭にした御家人を、 新補地頭 (しんぽじとう)といいます。
幕府は、この 新補地頭 になりたい人を増やすため、 新補率法 を定めます。
これは、土地の面積一反ごとに五升の米を追加で徴収できる、というものでした。
つまり、 新補地頭になった人は、自分の土地から多く税を取って、自分の物にしていいですよ、というボーナスをつけた のです。
こうして、幕府は朝廷の権力を弱め、六波羅探題を設置し、新補地頭を次々と任命して勢力を強めていきました。
2代執権の北条義時が亡くなると、その後を継いで息子の 北条泰時 (ほうじょうやすとき)が執権となります。
このポイントでは、承久の乱で活躍し、乱後は六波羅探題となっていた泰時が鎌倉に戻ってきたて行った政治について、見ていきましょう。
北条泰時は執権となりましたが、同時に執権を補佐する 連署 (れんしょ)という役職を設置します。
初代連署は、泰時と共に承久の乱で幕府を攻め、六波羅探題となっていた 北条時房 です。
将軍は既に権威を失っていたので、 政治の中心として執権が、その補佐として連署がいる 、という状況になりました。
また泰時は、政務・裁判を話し合いで決めるための機関として 評定衆 (ひょうじょうしゅう)を設置しました。
これまでも、有力な御家人の合議によって政治が動かされていましたが、幕府の機関として正式に設立したことになります。
ちなみに、評定衆は13人で構成されました。
3代将軍の源実朝が殺害された後、将軍の座は空席となっていました。
周囲の反発を避けたい泰時は、自身が将軍に就任することはせず、形だけで力を持たない飾りの将軍を、身分の高い藤原氏から連れてきます。
これが 摂家将軍(藤原将軍) です。初代の摂家将軍となったのは、九条頼経(くじょうよりつね)という人です。
当時の藤原氏は、近衛(このえ)・一条・二条・九条・鷹司(たかつかさ)の五摂家に分裂してしまっていました。
ちなみに、この5家のうち、筆頭格であったのは近衛家です。
北条泰時 の時代が続く中、 貞永式目(御成敗式目) (じょうえいしきもく(ごせいばいしきもく))という法律が作られます。
このポイントでは、貞永式目について詳しく見ていきましょう。
1232年 、泰時は、初めて武士のための法律を制定しました。
これが 貞永式目(御成敗式目) です。
文字が読めない武士にも理解できる、平易なものでした。
重要なことは、貞永式目が 武士だけを対象とする法律(武家法) であることです。
武士、つまり幕府と御家人にしか適用されない内容であった、というわけです。
そのため、朝廷の定めた公家法(律令など)、荘園の法律である本所法なども同時に存在していました。
貞永式目は51ヶ条で構成され、内容は 守護地頭の職務 や地頭同士の 所領問題の解決法 が中心となっていました。
武士のための法律なので、一般の農民や商人についての内容は含まれていませんでした。
この51ヶ条でまとめられているのは、「 道理 」と「 先例 」と呼ばれたものです。
道理 とは、武家社会の慣習について記したものです。
道理 とは、源頼朝以来の政治・裁判を参考にして、対応をまとめたものです。
貞永式目は制定後も、何度か項目が追加されることになります。
この追加法を 式目追加 と呼びます。
ちなみに、条文の数である「51」という数にも意味があります。
飛鳥時代に、十七条の憲法などがあったことを覚えているでしょうか。
この「17」という数字にあやかって、その3倍の「51」にしたと言われています。
では、今回の内容を練習問題で確認していきましょう。
承久の乱の結果、 後鳥羽 、土御門、順徳の三上皇が配流され、そのうち 後鳥羽上皇 は隠岐(現在の島根県)に流されました。
また、京都に 六波羅探題 が設置され、幕府が西国の支配権を確立しました。
初代六波羅探題の北条泰時は後の3代執権、時房がその補佐役である連署に就任することになります。
3代執権北条泰時の代になると、執権の補佐である 連署 と、13人の合議制の機関である 評定衆 が正式に設置されました。
泰時が定めた初の武家法である 貞永式目 (御成敗式目)は、 1232年 に制定されました。
貞永式目の51ヶ条は、武家社会の慣習である 道理 と頼朝以来の政治・裁判の内容である 先例 で構成されていました。
今回は、承久の乱以後、 北条泰時 の政治を中心に見てきました。
今後も、似たような名前の北条氏が出てきますので、
北条泰時のときに連署・評定衆が設置され、貞永式目も制定された 、としっかり関連付けて覚えておきましょう。
鎌倉時代の政治1〜2 確認テスト
今回は、鎌倉幕府の政治の前半部分について、確認テストをやっていきましょう。
将軍を補佐する執権に代々就いた北条氏は、他の有力な御家人を排斥していました。
2代執権の 北条義時 は、1213年に 和田義盛 を滅ぼし、義盛の 侍所別当 の地位を引き継ぎます。
こうして北条義時は、この侍所別当と、親の北条時宗から引き継いだ政所別当を兼任し、 執権 の地位を確立しました。
義時はさらに権力を高めるため、1219年に謀略を打ちたて、3代将軍 源実朝を、相模国の 鶴岡八幡宮 で暗殺しました。
鎌倉幕府成立後も、西国は朝廷の支配下にありました。
そのなかで、西国を支配していた 後鳥羽上皇 と、東国を支配していた 北条義時 の対立から起こった戦いが 承久の乱 です。
幕府はこの戦いに圧勝し、その後西国の支配権を確立します。
3代執権の 北条泰時 は、執権の補佐役である 連署 という役職を新設し、初代連署に北条時房が就きました。
時房は、泰時と共に承久の乱や六波羅探題として活躍した人物です。
また泰時は、政務や裁判のための合議制の機関である 評定衆 を正式に設置しました。
それまでも合議で政治は行われていましたが、正式に機関として設置されたのはこのときです。
次に、一問一答形式の問題で確認していきましょう。
鎌倉幕府の初代執権は、 北条時政 です。
時政は、娘の政子を初代将軍源頼朝に嫁がせ、間に生まれた子どもを次の将軍にします。
時政は幕府内で有力な他氏を排斥するとともに、自分の孫でもある2代将軍の 源頼家 を幽閉します。
頼家は1204年、幽閉されていた 伊豆修禅寺 で殺害されています。
3代将軍の 源実朝 が殺害された 鶴岡八幡宮 との区別をつけるようにしましょう。
承久の乱の結果、幕府が大勝し、敗北した朝廷側にいた三人の上皇が配流されました。
そのうち、 隠岐 に流されたのは 後鳥羽上皇 です。
他には、土御門上皇が土佐に、順徳上皇が佐渡に流されています。
また、幕府は朝廷を監視し西国支配を確立するため、京都に 六波羅探題 を設置しました。
それまでは、京都守護というものが置かれていました。
初代六波羅探題が 北条泰時 と 北条時房 であることも押さえましょう。
そして承久の乱の後、新たに置かれた地頭を 新補地頭 といいます。
3代執権北条泰時は、 1232年 に、最初の武家法である 貞永式目(御成敗式目) を制定しました。
貞永式目の基準には、武家社会の慣習などの 道理 と、頼朝以降の政治・裁判の 先例 がありました。
最初の武士のための法律として、しっかり押さえておきましょう。
最後の問題は、二つの文の正誤を問う問題です。
元となったセンター試験では、両方合っていないと点数にならないので、そのつもりで解いてみましょう。
御成敗式目(貞永式目)について、AとBの文がそれぞれ正しいか、誤っているかを判定する問題です。
Aの文は、正しい文(○)です。
文にあるように、貞永式目は、武家社会の慣わしである 道理 と、頼朝以来の政治・裁判の記録である 先例 を基準に作られたものです。
ちなみに、この後貞永式目に追加されていく法律は、 式目追加 と呼ばれます。
Bは誤り(×)です。
貞永式目は 武家法 であり、その対象は武士に限られます。
従来の律令や公家法、荘園の法律である本所法などを否定するものではなく、これらは貞永式目と同時に使われ続けていました。
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今回から、本格的に鎌倉時代に何が起きて、誰がどんなことをしていったのか、という時代の流れを見ていきます。
まず、これから勉強していく鎌倉時代の政治の全体像を捉えておきましょう。