フランス革命とナポレオン戦争 <世界史の窓より>
Text p.226
A アンシャン=レジーム
Text p.227
Text p.228
Text p.229
b ロベスピエール
Text p.230
エ.皇帝ナポレオンの誕生
Text p.231
ダヴィドの描いたB ナポレオン
Text p.233
b ゴヤ 『1808年5月3日』
空欄A。
革命前のフランスの政治・社会体制といえば?
正解はアンシャン=レジームです。
旧体制・旧制度という意味があります。
この体制においては、第一身分と第二身分は税金を免除されている一方、第三身分のみが税金を課せられていました。 第三身分は貧しい人が多く、彼らの生活は圧迫されていたのです。
空欄B。
ルイ16世が登用した重農主義者といえば?
正解はテュルゴーです。
彼は重農主義に基づいて自由な経済活動を目指しましたが、改革は失敗に終わりました。
空欄C。
テュルゴーと同じく、ルイ16世に登用された銀行家といえば?
正解はネッケルです。
特権身分の反発にあい、彼の改革も失敗してしまいました。
空欄A。
ネッケルによる免税特権廃止の提案に特権身分が反発し、開催を求めたものといえば?
正解は三部会です。
特権身分の要求により、ルイ13世以来召集されていなかった三部会が久しぶりに開催されることになります。
空欄B。
『第三身分とは何か』を著し特権身分を攻撃した人物といえば?
正解はシェイエスです。
空欄C。
第三身分が三部会から離脱して結成したものは?
正解は国民議会です。
彼らは憲法制定まで解散しないという誓いを結びました。これを球戯場の誓いといいます。ちなみに国民議会は、後に憲法制定議会と改称されました。
空欄A。
この事件を機にフランス革命が始まったという記述がヒントです。
正解はバスティーユ牢獄(襲撃)事件ですね。
この事件をきっかけにフランス革命が始まり、革命の動きは全国に拡大していきました。
空欄B。
国民議会は、中世から続く領主裁判権や十分の一税などを廃止しました。
これを封建的特権の廃止といいます。
空欄C。
ラファイエットらによって起草された、という記述がヒントです。
正解は人権宣言ですね。
人権宣言ではフランス革命が目指す理想が掲げられ、革命の指針を世の中に知らしめることとなりました。
空欄A。
国王一家がパリに連行された事件といえば?
正解はヴェルサイユ行進です。
空欄B。
国王と議会とのパイプ役を担っていた人物といえば?
正解はミラボーです。
空欄C。
国王一家が国外へ逃亡を企てた事件といえば?
正解はヴァレンヌ逃亡事件です。
ミラボーの死後、国王一家は革命の中心地であるパリにいることに不安を抱いていました。彼らはオーストリアへ逃亡し、絶対王政を復活させようとたくらんだのです。国王一家が逃亡を企てたことは国内に広まり、国王に対する評判は一気に下落してきました。その結果、国王は不要だと唱える共和主義者たちが支持を集めるようになったのです。
空欄A。
国民議会の解散後に制限選挙によって成立した議会といえば?
正解は立法議会です。
空欄B。
立法議会において次第に台頭し、内閣を組織した派閥といえば?
正解はジロンド派です。
彼らは国王がいない共和政を望む人びとの代表でした。
空欄A。
義勇軍やサンキュロットらが国王の宮殿を襲撃した事件といえば?
正解は8月10日事件です。
これを受けて立法議会は王権の停止を宣言し、さらに男性普通選挙の開催を宣言して事態の収集をはかり、その後議会を解散しました。
空欄B。
フランスの義勇軍が初めて勝利した戦いといえば?
正解はヴァルミーの戦いです。
フランスの王権が停止され、さらにフランスの義勇軍が初めてプロイセン・オーストリア軍に勝利。この勝利は、フランスの新しい歴史が生まれるきっかけとなりました。
空欄A。
立法議会が解散した後男性普通選挙によって成立した議会といえば?
正解は国民公会です。
空欄B。
国民公会において、マラー暗殺後に実権を掌握した人物といえば?
正解はロベスピエールです。
彼は公安委員会に権力を集中させ、恐怖政治を展開していきます。
ナポレオン・ウイーン体制
~ 1801 年)でオーストリアをマレンゴの戦いで破った。リュネヴィル条約でライン左岸をオース
トリアより獲得,1802 年の(15)〔 〕でイギリスと和約,第2回対仏大同盟を解体した。
共和国第8年の憲法で所有,平等,自由の原則を掲げ,1800 年には(16)〔 〕を設立した。
(17) (18) ぼっしゅう1802 年,教皇 〔 〕との宗教和約 = 〔 〕でカトリックを許可,しかし革命時の没 収 教
へんかん ゆうへい会財産は返還しなかった。のちナポレオンは教皇ピウス7世をフォンテンブローに幽閉する。また
同年,黒人奴隷制度が復活した。
1802 年,公教育一般法を制定,(19)〔 〕年には,フランス民法典 =(20)〔 〕を発布した。全 文 2281 条で人身の自由,法の前の平等,(21)〔 〕の絶対,(22)〔 〕の自由,良心の自由などブ ルジョワ市民社会の基本的権利を規定した。“余の名誉は 40 回に及ぶ戦勝ではない。永遠に残るの
はこの民法典である”
解答
(1)コルシカ島 (2)イタリア遠征 (3)オーストリア (4)カンポ = フォルミオ (5)第1回対仏大同盟 (6)エジプト (7)アブキール湾 (8)ネルソン (9)ロゼッタ = ストーン (10)第2回対仏大同盟 (11)1799
とうりょうせい
ふ
(12)ブリュメール 18 日のクーデタ (13)統 領 政府 (14)イタリア遠征
(15)アミアンの和 (16)フランス銀行 (17)ピウス7世 (18)コンコルダート (19)1804 (20)ナポレオン法典 (21)私的所有権 (22)契約
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第 35 講 ナポレオン・ウィーン体制
1 びんぼう
ほうへい
ナポレオン = ボナパルトは(1)〔 〕の貧乏貴族出身で,砲兵士官になり革命中はジャコバン派
とうごく
を支持,テルミドールの反動で一時投獄された。1795
年には王党派のヴァンデミエールの反乱を鎮
圧し国内軍司令官に任命された。1796 年には(2)〔 〕司令官として第1回イタリア遠征で(3)〔 〕軍を撃破し(4)〔 〕の和で(5)〔 〕を解体,この条約でフランスは南ネーデルラン
ト(ベルギー)とアドリア海諸島を獲得した。
1798 年イギリスのインド支配打倒を目的とした(6)〔 〕遠征の(7)〔 〕の戦いで(8)〔 〕 率いるイギリス艦隊に敗北,この遠征のときナイル河口で(9)〔 〕の碑文が発見された。このと き(10)〔 〕(1799 ~ 1802 年)が結成された。この間の(11)〔 〕年の 11 月9日,(12)〔 〕で
(13)〔 〕を樹立しフランス革命に終止符を打った。
【統領政府】統領政府はフランスの銀行資本に財政的に支援され,シェイエス,ディコス,そして(14)
ナポレオンの3人の統領だったが,事実上,第1統領ナポレオンの独裁だった。第2次 〔 (〕1800
(23) (24) こう ごう (25)【第1帝政】 〔 〕年,国民投票で皇帝に就任 〔 〕を名乗る。皇后は 〔 〕。
(26)〔 〕寺院に教皇(27)〔 〕を呼びつけ戴冠させた。その絵を描いた画家が(28)〔 〕である。 これにたいして(29)〔 〕が結成される。(30)〔 〕年には「黒いジャコバン」(31)〔 〕の革命 の結果,(32)〔 〕がフランスから独立した。(33)〔 〕年の(34)〔 〕の海戦では再び(35)〔 〕に破れイギリス上陸作戦に失敗したが,12 月2日には霧の中(36)〔 〕の3帝会戦ではロシアの(37)〔 〕とオーストリアの(38)〔 〕を 破りヨーロッパを恐れさせ,英首相小ピットは心痛から死亡した。こうして第3回対仏大同盟が解 体した。
【最盛期】(39)〔 〕年には南西ドイツつまり(40)〔 〕と(41)〔 〕を除く全ドイツの保護者と なり(42)〔 〕を結成,1648 年のウェストファリア条約で既に有名無実化していた(43)〔 〕が 滅亡した。兄ジョセフを(44)〔 〕王のち(45)〔 〕王(1808 年)弟ルイ(後のナポレオン3世 の父親)をフランス革命の影響でバタヴィア共和国となっていた(46)〔 〕王にした。(47)〔 〕の戦いでプロイセンとロシアを破り(48)〔 〕を占領した。占領下のベルリンで
(49)〔 〕が『(50)〔 〕』という連続講演を行いドイツのナショナリズムが高揚した。ナポレオン
法典がドイツの民情に合わないので(51)〔 〕は(52)〔 〕派を始め,その弟子が『グリム童話』
を書いた。1806 ~ 07 年の(53)〔 〕で対英経済封鎖とフランス資本の大陸市場独占を図ったが,
これはむしろ大陸諸国にとって大打撃だった。
(54)〔 〕年の対ロシア,対プロイセンの(55)〔 〕でプロイセンの領土を半減させ,その西に
(56) (57) (58) かいらい
ボン生まれの 〔 〕が生活した 〔 〕,東に 〔 〕という傀儡政権を建設した。
1808 年にスペインを征服するが(59)〔 〕では(60)〔 〕(小さい戦争の意)に悩まされ,最後 まで鎮圧できなかった。その時の絵が(61)〔 〕の「1808 年5月3日」だ。プラド美術館(マ ドリード)蔵。
解答
(23)1804 (24)ナポレオン1世 (25)ジョセフィーヌ (26)ノートルダム (27)ピウス7世 (28)ダヴィド (29)第3回対仏大同盟 (30)1804
(31)トゥサン = ルーベルチュール (32)ハイチ (33)1805 (34)トラファルガー (35)ネルソン (36)アウステルリッツ (37)アレクサンドル1世 (38)フランツ2世 (39)1806 (40)オーストリア (41)プロイセン (42)ライン同盟 (43)神聖ローマ帝国 (44)ナポリ (45)スペイン (46)オランダ
(47)イエナ・アウエルシュタット (48)ベルリン (49)フィヒテ (50)ドイツ国民に告ぐ (51)サヴィニー (52)歴史法学 (53)大陸封ふう鎖さ 令 (54)1807 (55)ティルジット条約 (56)ベートーベン
(57)ウェストファリア王国 (58)ワルシャワ大公国 (59)半島戦争 (60)ゲリラ (61)ゴヤ
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プロイセンでも国政改革がすすんだ。(62)〔 〕の農民解放,都市自治,それを受け継いだ(63)〔 〕の農民への土地授与,中央政府機構の整備などの改革,シャルンホルスト,グナイゼナ ウの国民軍の創設などの軍政改革,(64)〔 〕の教育改革と(65)〔 〕の創設(1811 年)などが
(66)
それである。ベルリン大学の初代の総長が 〔
〕。のちに世界史を「絶対精神実現のプロセスだ」
べんしょうほう きょうだんと単線的な進歩史観で定義した弁 証 法の(67)〔 〕も 教 壇に立った。
ナポレオンは 1810 年オーストリアの皇女マリ = ルイーズと結婚した。
しゃ よう ちょうばつ (68) (69)
【斜陽期】大陸封鎖令に違反した 懲 罰として始まった
〔 〕では 〔 〕を占領したが,ロシアの 〔 〕将軍の 焦 土戦術の前に失敗,1813 年 〔 〕が
(70) (71) しょう ど
〔 〕の戦いののち(72)
結成されヨーロッパの大半の国が参加,(73)〔 〕の諸国民戦争で墺,普,露の連合軍に破れ(74)〔 〕へ流された。1814 年4月に退位し(75)〔 〕が開催されるが“議会は踊る,されど進 まず”でそのうちナポレオンがエルバ島を脱出,1815 年3月 20 日から6月 22 日までの百日天下に たいし,第5回対仏大同盟が結成され,(76)〔 〕の戦いでイギリスの(77)〔 〕とプロイセンの
ブリュッヘルに破れ,南大西洋の(78)〔 〕に流された。
ナポレオンはヨーロッパに2つの種を蒔ま いた。自由主義の種と国民主義の種。占領地域に『ナポ
レオン法典』を適用し自由主義経済の原則を根づかせた。また侵攻され占領された地域のナショナかくせい
リズム(国民意識)を覚醒させた。
解答
(62)シュタイン (63)ハルデンベルク (64)フンボルト (65)ベルリン大学 (66)フィヒテ (67)ヘーゲル (68)ロシア遠征 (69)ボロジノ (70)モスクワ (71)クトゥーゾフ (72)第4回対仏大同盟 (73)ライプツィヒ (74)エルバ島 (75)ウィーン会議 (76)ワーテルロー (77)ウェリントン (78)セントヘレナ
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2
【ウィーン会議】ナポレオン1世を(1)〔 〕に流し,オーストリア・ハプスブルク家の宰相ひざもと
ていしょう
ちつじょ
(2)〔 〕のお膝元で(3)〔 〕が開かれウィーン体制(メッテルニッヒ体制)が始まった。会議 の中心は,フランス外相(4)〔 〕とロシア皇帝(5)〔 〕世の三人。 「会議は踊る,されど進まず」と言われ舞踏会ばかりで議事進行がままならず,途中ナポレオン が脱出して再度皇帝になった。 ウィーン体制の原則はタレーランが提唱した(6)〔 〕で,フランス革命勃発時(1789 年7月 14 日)の支配者・領土が正統というものだ。 同盟は(7)〔 〕。アレクサンドル1世が提唱したもので,キリスト教の友愛精神による秩序維 持が趣旨であるが,英外相カッスルレーはナンセンス!と言った。ギリシア正教会の世俗代表のロ シア皇帝の言う「友愛」に,カトリックの教皇,英国国教会のイギリス,イスラームのオスマン帝 国は参加せず,実質的な同盟は(8)〔 〕だった。イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシア の四国で後にフランスも加わり五国同盟となった。 ウィーン体制の基本的性格は保守反動。王家による支配を保ち守って,革命・民族運動・国民に よる国家形成はおさえこむというものだ。
【(9)〔 〕】ウィーン会議による決定事項として以下のことを暗記しよう。 1フランス・スペイン・ナポリで(10)〔 〕が復活 2イギリスはオランダから(11)〔 〕(現スリランカ),(12)〔 〕,フランスから(13)〔 〕を獲
得
3オーストリア = ハプスブルク家は(14)〔 〕・(15)〔 〕を回復 4南ネーデルラント(現ベルギー)は(16)〔 〕領に 5ドイツはライン同盟が廃止され,主権がある 35 君主国4自由市(リューベック・ハンブルク・
ブレーメン・フランクフルト)から成る(17)〔 〕になり,(18)〔 〕が議長国,(19)〔 〕に 連邦議会
解答
(1)エルバ島 (2)メッテルニヒ (3)ウィーン会議 (4)タレーラン
(9)ウィーン議定書 (10)ブルボン家 (11)セイロン島 (12)ケープ植民地 (13)マルタ島 (14)ヴェネツィア (15)ロンバルディア (16)オランダ (17)ドイツ連邦 (18)オーストリア (19)フランクフルト
(5)アレクサンドル1 (6)正統主義 (7)神聖同盟 (8)四国同盟 ぎ ていしょ
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6プロイセンは(20)〔 〕の北半分と(21)〔 〕を領有しいよいよフランスに接近 7ロシアは(22)〔 〕を獲得 8ロシア皇帝は(23)〔 〕立憲王国を支配(事実上第4次ポーランド分割) 9スウェーデンはデンマークから(24)〔 〕を獲得 10スイスは(25)〔 〕に ウィーン体制がその理念どおり自由を抑圧できた例は4つ。ドイツの(26)〔 〕の運動,イタリ アの(27)〔 〕の運動,スペインのリェゴによる(28)〔 〕,ロシアの(29)〔 〕。逆に抑えなかっ た2例が(30)〔 〕の独立と(31)〔 〕の独立だ。
解答
(20)ザクセン (21)ラインラント (22)フィンランド (23)ポーランド (24)ノルウェー (25)永世中立国 (26)ブルシェンシャフト (27)カルボナリ党 (28)立憲革命 (29)デカブリストの乱 (30)ギリシア (31)ラテンアメリカ諸国
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3
ラテン = アメリカ初の独立国,世界初の黒人共和国はフランス植民地サント =
ドマングつまり
(1)〔 〕だ。「黒いジャコバン」といわれた(2)〔 〕が指導,ナポレオンが介入したが 1804 年 に独立宣言 1806 年に独立した。 ベネズエラやアルゼンチンではスペイン本国の重商主義政策への反発と安価なイギリス製品を求
(3)
め自由貿易体制への移行を望んだ。1808 年の 〔
〕のスペイン侵攻を機に独立運動が始まった。
【シモン = ボリバルとサン = マルティン】(4)〔 〕はコロンビアを転戦し亡命生活を経てベネズ
エ ラ に 再 上 陸,( 5)〔 〕 年 に は( 6)〔 〕・( 7)〔 〕(( 8)〔 〕 を 含 む )・( 9)〔 〕 を(10)〔 〕として独立させた。1830 年には各々に解体した。
1816 年にはラプラタ連合が(11)〔 〕として独立宣言,1825 年にはイギリスの調停でブラジル
との緩衝地帯として(12)〔 〕が形成された。1817 ~ 18 年(13)〔 〕はアンデス山脈を越えて(14)〔 〕を解放。スペインの南米支配の本拠地(15)〔 〕(現ペルー)を 1821 年に解放し,1822 年にはエクアドルのグアヤキルでシモン = ボリバルと会見し後事を託す。ボリバルは内陸部アルト
= ペルーの王党派を撃破して(16)〔 〕が独立,名称は彼の名に由来する。
【メキシコ】メキシコのような本国スペインとの経済的結びつきの強い地域では(17)〔 〕も保守 的だった。1810 年には下級クリオーリョの(18)〔 〕神父が奴隷制廃止などの急進的要求を掲げ た運動を始め先住民やメスチーソが多数参加したが 1811 年に処刑された。1813 年にはメスチーソ の(19)〔 〕が奴隷制廃止,土地改革を主張して独立宣言したが 1815 年に処刑された。
1820 年にスペイン本国で(20)〔 〕によるブルボン家への立憲革命が起き 1812 年自由主義憲法 が復活した。この影響でメキシコも独立に傾き 1821 年(21)〔 〕を皇帝に独立した。メキシコで は 1855 年に法相(22)〔 〕による改革がなされ既得権にメスが入った。保守派やカトリック教会 は(23)〔 〕に支援を要請,フランス・スペイン・イギリスがメキシコ出兵,共和政府を倒しオー ストリア皇帝の弟マクシミリアンを皇帝に擁立した。
(1)ハイチ (2)トゥサン = ルーヴェルチュール (3)ナポレオン 1 世
(4)シモン = ボリバル (5)1819 (6)ベネズエラ (7)コロンビア (8)パナマ (9)エクアドル (10)グラン(大)= コロンビア (11)アルゼンチン (12)ウルグアイ (13)サン = マルティン (14)チリ (15)リマ (16)ボリビア (17)クリオーリョ (18)イダルゴ
(19)モレロス (20)リェゴ (21)イトゥルビデ (22)フアレス (23)ナポレオン3世。
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しかしメキシコ民衆の反乱や疫病でフランス軍は壊滅,南北戦争を終えた合衆国の介入もありフ ランス軍はマクシミリアンを見捨て撤兵,皇帝は銃殺された。 このフアレスのもと対仏戦争に活躍したが後に反動化したのが(24)〔 〕。かれは 1910 ~ 17 年 のメキシコ革命で打倒されるまで独裁体制を維持した。ディアスを打倒し大統領になったのが
(25)〔
〕だが,土地改革に否定的で(26)〔 〕指導の農民勢力と対立したので政権は不安定でクー
デターで暗殺された。
(27)〔 〕は(28)〔 〕に勝利し大統領に就任し 1917 年に,土地改革・地下資源の国有化・政
教分離・社会的権利の保障などを定めた憲法を発布したが,憲法を履行せず民衆の支持を失い暗殺 された。サパタはカランサ派に暗殺された。
【ブラジル】唯一ポルトガル領だったのが(29)〔 〕。ナポレオン戦争期にイギリスがポルトガル 王室をブラジルに避難させた。ナポレオン失脚後,王は帰還したが王子が 1822 年に皇帝に即位し 独立を宣言。1889 年には共和国になった。社会学の祖で実証主義哲学を体系化したといえばフラン スの(30〔)〕だが,彼が始めた宗教が人間教。その信者が多いからブラジル国旗は地球をかたどっ ている。
(31)〔 〕 年 に(32)〔 〕 で 初 の 革 命 に よ ら な い 社 会 主 義 政 権 を 樹 立, 鉱 山 国 有 化 し た の が(33)〔 〕。 ア ジ ェ ン デ 政 権 を(34)〔 〕 年 に 打 倒 し 権 威 主 義 政 府 を 樹 立, 国 民 を 弾 圧 し た の が(35)〔 〕。1990 年代ペルーの日系人大統領が(36)〔 〕。キューバ革命のアルゼンチン人,1967
年ボリビアで死亡したのが(37)〔 〕。戦後アルゼンチンで国家社会主義政策,妻がエビータと言 えば(38)〔 〕。
解答
(24)ディアス (25)マデロ (26)サパタ (27)カランサ (28)メキシコ革命 (29)ブラジル (30)コント (31)1970 (32)チリ (33)アジェンデ (34)1973 (35)ピノチェト (36)フジモリ (37)チェ = ゲバラ (38)ペロン
第 35 講 テスト
1 ブリューメル 18 日のクーデターで倒されたのは。 1 立法議会
2 総裁政府
3 国民公会
4 統領政府
2 第1帝政が始まったのはいつか。 1 1792 年
2 1804 年
3 1815 年
4 1830 年
3 ウィーン会議によって即位したのは。 1 シャルル 10 世
2 ルイ 18 世
3 ルイ = フィリップ
4 ルイ = ナポレオン
4 古い順に並べかえた場合に3番目にくるのは。
1 ワーテルローの戦い
2 ライプツィヒの戦
3 アウステルリッツの三帝会戦
4 トラファルガーの海戦
5 古い順に並べかえた場合に3番目にくるのは。 1 ライン同盟成立 2 ワルシャワ大公国成立 3 『ナポレオン法典』成立
4 ロゼッタ = ストーン発見
6 正統主義を唱えたのは。 1 メッテルニヒ 2 タレーラン 3 アレクサンドル 1 世 4 ディズレーリ
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7 神聖同盟に加盟しなかったのは。
1 ロシア
2 フランス
3 イギリス
4 オーストリア
8 ウィーン会議においてイギリスが獲得した領土は。
1 キプロス島
2 キオス島
3 セイロン島
4 クレタ島
9 ウィーン会議の結果,ポーランドを実質支配することになった国は。
1 オーストラリア
2 ロシア
3 オスマン帝国
4 スウェーデン
10 ウィーン会議の結果,南ネーデルラント(ベルギー)はどの国の領土になったか。 1 イギリス
2 フランス
3 オランダ
4 スペイン
第 35 講 テスト解答
1 2 2 2 3 2 4 2 5 1 6 2 7 3 8 3 9 2 10 3
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第24章「フランス革命とナポレオン」の確認テストです。
この章で学んだ内容を、問題を解いて確認しましょう。